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100日後に死ぬワニは100日後に死んだワニになった

Twitterで話題となっていたきくちゆうきさんの「100日後に死ぬワニ」が一昨日完結しました。ワニはひよこを助けて事故で死んでしまいました。

マンガの在り方、生と死、読者の読み方など、色々なことを考えさせてくれたこの作品。

まずはマンガの新たな在り方を示したこと。ワニは明らかに今までとは違った形で僕らに届いていました。元々は手に取って触れる書籍だったマンガでしたが、ネットの普及によって作者がそれぞれのホームページに公開するようになった。それらをまとめるコミックサイトも出来た。そして、SNSでの公開へと拡がり今回の形が生まれた。表現の方法が自由となってきたことが分かります。それぞれの形で作者が表現し、僕たちが容易に触れることが出来る時代が来た。とても良い時代です。

テーマについて。「死」は身近になって意識しづらいもの。というか考えないようにしているんですね僕ら。生きたときからいずれ死ぬことが決まっているという事実は分かっているんだけど、怖い。知っている人の死に出会うこともそれほど多いわけでもなく、だからこそ一回の衝撃は大きい。僕も人生の中で3回くらいしか死を実感したことはありません。人は日常にある「生と死」というテーマから目を背けたくなるものです。しかし、ワニの日常、4コマの読みやすさ、ポップな絵柄にカラー、Twitterという要素は読者にとってのハードルが比較的低い。死とのギャップが逆に読者の興味を引くものであったのです。きくちさんの描きたかったものを自分らしく届けた結果が、偶然にも私たちの心に響いたわけですね。

死とは偶発的要素に支配されたものです。志賀直哉「城の崎にて」で、死にかけていた私と死んでしまった動物たち。その中で生きることの寂しさを感じさせる小説です。国語の授業でも扱いますが、103年前の作品でありながら、生徒たちの心に響く。それは紛れもなく身近にある「死」であり、自分の身近にも「死」があり、誰もがその可能性と隣り合わせで生きていることを意識させられるのです。

尚、「こころ」「舞姫」「羅生門」「山月記」など、文学教材にはこのテーマが頻出します。以前、日本語を教えるのが国語教育と書いたのですが、生徒の主観を揺さぶるものとして、外せないものなのかなあと。日本的ではあるけど、日本人であるからこそ触れなければならない。

「100日後に死ぬワニ」の特質すべき点は、「100日後に死ぬ」のが分かっていることです。死を迎えると読者と作者が理解しているが、ワニは理解していない。通常のマンガ、小説、映画等で死亡フラグという言葉があります。これは、簡単に言うと定石、ベタな展開とでも言えば良いのでしょうか。それとは異なるのが今回のパターン。ワニは死に向かってどう生きていくのか。何が原因で死ぬのか、日常に死亡フラグはあるのか、ワニ以外の登場人物は死を知っているのか。

小説は一人称も三人称もありますが、マンガは基本三人称視点。つまり、一人の主観に依ることなく、出来事を追っていく読み方になります。そのため臨場感を感じ展開に一喜一憂する。通常のマンガの楽しみ方です。

ちょっと詳しく言うと、マンガにおいて私たちは空の上から登場人物たちの一挙手一投足を見守っている存在なわけです。その空想世界全体を創っているのが作者さん。小説で一人称の場合、私たちは主人公(視点人物)と同化しているんで、一人の人物の主観に沿って物語を疑似体験していく。

しかし、今回の場合、作者が最初に結末を述べている。盛大なネタバレをした状態でお話が始まった。この要素が加えられたことで、空の上から見ていた私たちの見方にも変化が起きました。ワニを見守り、その周りの人物の行動と「死」の意味を繋げ、一緒に苦しみ、死に方を模索した。三人称でありながら、ワニと登場人物たちに同化したのです。きくちさんは、タイトル一つでそれを可能にしてしまった。

展開は一つだけのはずのマンガで読者が想像し、それぞれの意味を見出そうとする。国語の「読みの教育」で私たちが苦労していることを、きくちさんは成し遂げてしまっているのです。「100日後に死ぬワニ」は「100日後に死んだワニ」になった後も私たちの心から消えず、色々な意味を見出そうとしてくる。

個人的な読み方は、「100日後に死ぬことを知っていけど、死に方は知らなかったワニ」。菊池さんが否定しているので、僕の完全な主観ですが。100日をどう生きるかは人次第。好きなものも欲しくて、好きな人も友達も大事にしたくて。最後に、友達や恋人と楽しく過ごして死のうとしたんじゃないかなと。

ワニは僕の中でまっすぐに生きていた。僕もワニのようにまっすぐに生きようと思う。

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