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フクシマからの報告 2020年秋    「もう村は元には戻らない」       故郷の再建に9年7ヶ月奮闘した村長  マスコミが無視した真意を聞く

 2020年10月26日、福島県飯舘村村長だった菅野典雄(かんの・のりお)さん(74)が、6期24年の任期を終えて引退した。自分の意思で選挙に出馬せず、任期切れで村長を離任する形を取った。新しい村長には、村職員だった杉岡誠さん(44)が無投票で当選した。

 菅野さんの村長としての最後の9年7ヶ月は「福島第一原発事故で放射性物質に汚染されたふるさとを再建する」という極めて困難な仕事が課せられた。それも、強制避難で6年間無人になって荒れていた村の再建である

 本題に入る前に、予備知識をおさらいしておく。

 飯舘村は、原発から30〜50キロ離れている。半径20キロの強制避難区域からは「飛び地」である。標高約500メートルの阿武隈山中に位置する高原の村だ。原発事故当時の人口は6500人ほど。寒冷な気候のため、稲作より牧畜が盛んな農村だった。豊かな自然の他には、観光名所もない。村行政の大きな課題は過疎対策だった。

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 遠くにある原発の存在を意識することもなく、村人は暮らしていた。2011年3月11日の原発事故発生当時も、放射能汚染と無縁と村人は思っていた。

 しかし、同月15日に同原発2号機から漏れ出した高濃度の放射性物質を含む雲(プルーム)が北西方向に流れ、飯舘村まで来たところで雨や雪になって地表に落ちた。3月19日になって村の上水道から放射性物質が検出された。結局、1ヶ月以上経た4月22日に村人は全員の強制避難を国から命じられた。

 私の9年半の取材の経験で、手元の線量計が示した最高記録は飯舘村で経験した毎時353.6 マイクロシーベルトである。農機具小屋の雨樋の下だった。事故前の7000倍以上。3時間そこに立っていると1年間の許容被曝量を超えてしまう猛烈な汚染だった(下の写真3点は2011年9月、福島県飯舘村で)。

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当時、村の中では屋外では毎時5〜10マイクロシーベルト前後、屋内でも1〜2マイクロシーベルトはありふれた光景だった。事故前は0.04〜0.05マイクロシーベルトだったことと比較すると、いかにひどい汚染だったかわかる。

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 こうした高線量の汚染は、原発直近とほぼ同じだった。

  しかし、原発20キロ圏内と違って、飯舘村は立入禁止にならなかった。当時の日本の法律では、20キロより外側を立ち入り禁止にする根拠法がなかったからだ。

 だから、村が無人になったあとも、私のようなフリーの記者でも村に入ることができた。その結果が「福島飯舘村の四季」(双葉社)という本だ。1年間村に通い続けて、四季の自然を記録した写真集である。この本は私の写真家としてのデビュー作になった。

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 一方、新聞・テレビといったマスコミも村の取材に盛んに入った。村人の避難する仮設住宅も村役場の仮庁舎も、福島市内だった(例:原発地元の双葉町は埼玉県加須市、大熊町は会津若松市と避難先が遠かった)。村長や村民がマスコミに登場する回数が増えた。

 過疎地である飯舘村には、都市部の視聴者の郷愁をそそるようなひなびた田園風景が広がっている(同じ原発被災地でも、原発直近の市町村は『地方都市』に風景が近い)。記事にすると、その悲劇性が都市住民に理解しやすい。テレビニュースとしても絵になる。そうやってマスコミは村を「原発事故の悲劇の象徴」のように扱った。無名の山村「飯舘村」の名前は全国に知られるようになった。

 さて、本題である菅野典雄村長の話に入る。

 まず第一の前提として指摘しておかなければならない。

 放射能で汚染された自治体の再建。こんな不可能とも思える難題に取り組んだ行政の長は地球上にいないことだ。

 そもそも、原発が事故を起こして周辺の居住地域を汚染した事件は、人類の歴史で3回しか起きていない。スリーマイル島原発事故(1979年)では強制避難そのものがなかった。チェルノブイリ原発事故(1986年)では、30キロ圏内の住民は強制的に立ち退かされて今も無人である。3回目、福島第一原発周辺の市町村長だけが、この仕事に取り組んでいる。

 言うまでもないことだが、原発事故の被害を受けたことには、首長を含め地元民には何の落ち度もない。また原発事故以前に戻せなかったからといって、首長を責めることもできない。放射能汚染というのはそれほどの甚大な破壊をもらたす。

 そんな世界史上誰もやったことのない仕事に取り組んだ村長である。その仕事をどう振り返るのか、歴史の記録に留める価値がある私は思う。

 菅野村長が引退を表明する記者会見を開いた2020年7月6日、私は別の取材のため福島県にいた。知らせを聞いて、すぐ村役場の会見に駆けつけた。

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(冒頭の写真は、村長を引退した4日後の菅野さん。2020年10月30日、飯舘村の自宅で)。

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