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あえて言おう。トルコ語は役に立つ

改めて自分の机回りを見まわしますと、トルコから持ち帰った本はもちろんのこと、アゼルバイジャンで買いあさった本、語学書、言語学の本、地域関連の和書と、かなりの点数があることに気づきます。

我ながらよい空間にしたものだと思うのです。老後もきっと飽きることはない。少なくとも、「読む本がない(からつまんない)」という悩みとは無縁でいられそうです。今後もそれなりに健康が維持できれば、ですけど。

それを思うにつけ、「トルコ語なんてやって役にたつの?」となかば嘲り気味に聞いてきた、学部生時代当時の方々に一人ずつ会って、激重の『共和国百科事典』10巻本でガンガン物理的に○きながら(筆者注:物騒な動詞なので自己規制しています)「役に立ってますけどね。ホラこうやって貴様を(以下略)」とやってる自分を思い浮かべる、そんな月曜の朝です。

冗談はさておいて。トルコ語は役に立つのですよ。語学としてもだし、生活を充実したものにするという点でも役に立つ。

何より現地で、知らないよりはるかに有利な生活を送れたし。その経験が、日本に帰ってきてからも仕事の役にたっているし。

自分がバクーの美しい街並みに触れられたのも、もともとはトルコ語を始めたからなのです。

さらには、トルコ語から発展的に関心が広がってのテュルク諸語にも関心が向く。ということは、トルコ共和国以外の地域にも手順に関心が向くという効能もあるのです。後述しますが、今世界の関心が集まるロシアもウクライナも、その好例といえるでしょう。

昨日、「友の会」名義のほうでまたしても語学がらみの話を少し書いたのですが、2つ目の同系統の言語に触れることで、さらに自分の視界が開けていく部分もあると思いますし。ここからさらに、「ではほかのテュルク諸語はどうなっているのだろうか?」という方向にも考えが及んでいくでしょう。

そうすると、それらのテュルク諸語は具体的にはどこで話されているのだろうか、となり、さらにその地域そのものにも関心が向いてくるわけです。

アゼルバイジャン語に取り掛かったころですら、ロシア連邦内にどんなテュルク系の人たちがいて、彼らのテュルク語はどのようなものなのかということには私はさほど関心がありませんでした。

それが、今や「ロシア語をひとまずやっておかないとアクセスできないテュルク諸語が多すぎて悲しすぎるっしょ」と思えているというんですから。それで実際に月曜午後はロシア語の授業を受けるところまできたんですから。

そこから今回みたいにウクライナってそういえばクリミア半島の…などなど考えつつ、関連本を買ってみたらクリミア・タタール語だけでなくガガウズ語も話されている地域があると知ってびっくりしたりとか。

それだけに今回の侵攻は腹が立ってくるわけですが、まさにその瞬間、なるほど自分の周囲の関係者が今回どれほど悲しんでいるか(あるいはテレビが見れないか)というのを少しは共有できる気もします。

良し悪しは別にして、これはこれで十分自分にとっては意義があることなのです。まして不謹慎と誹られる可能性は重々承知したうえで、ウクライナに「も」がぜん興味を持ってしまってもいます。無関心よりははるかによいでしょう。

自分に関して言えば、すべて、出発点は大学入学のときに始めたトルコ語からなのです。

言語とはなんぞや、文法構造とはなんぞや。テュルク諸語にはどのようなものがあって、どこで話されているのか。人々はどんな文化をもっているのか?どんなおいしいものを食べている?どんな生活をしている?etc.

結果、テュルク諸語もロシア語も学んで、トルコ語を人に教えて…という、これほどに充実した日々は、少なくともトルコ語を専攻しはじめた18歳の頃には期待していませんでした。やりはじめたことからどのように発展していくかなどというのは、予想してもきりがないということでもあるでしょう。

それだけに、やはり何かを始めた人に対して、「それって役にたつの?」と聞くっていうこと自体が、おそらく将棋でいえば「悪手」なのだろうなと思うわけです。

ちなみに将棋は、相手の悪手は咎める必要があるんですよね。とすれば、「トルコ語なんてなんの役にたつの?」などという悪手を指した相手は、百科事典でぶん○る…のではなく、「役に立ってますね(ニッコリ)」と応じるのが最善手、あるいは最強の応手なのかもしれません。

オレたち、自信もって新しいことをはじめていこうな。大丈夫、続ければ必ずいつか報われます。おりしも新学期だし、何かを始めるには絶好の時期ですよ。たぶん。

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