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これ1つで生活が劇変しました

これ一つで病気が治りました、とか
たった3か月で10万円が100万円に、とか
そういう魔法系の話ではないのですが

個人的には本当にやるだけで
「見える景色が変わった」習慣を紹介したいと思います。
※ちなみにスピリチュアルとか何かを妄信しているなどはないです。

結論から言えば
「毎日、すれ違う人、動物、モノ、風景、全ての幸せを願うこと」
これはマインドフルネス瞑想などで行われている瞑想法にもあるようなのですが、
まず私は、外出した際にすれ違う人から始めました。

いつもの短気な私なら
「電子タバコだから道で吸ってても良いよね~」的な雰囲気満載のオニーチャンを見かけると
「ちっ、このゴ〇虫が!」と地獄行きを100%願っていたのですが
この習慣では
「お兄さん、大切な家族と日本のために電子タバコで健康に気を遣っているんですね。末永く健康でお幸せに」
と、建前ではなくここ大事なのですが『心の底から』そう思うようします。

以前は、住宅街を爆走し歩行者にクラクションを鳴らす〇ルグランド(運転は中年茶髪パパ風)などを見ると
「ちっ、趣味の悪い鉄くずが!」と自分の憤りをただぶつけていました。
そんなときも今は
「どうか、あなたが無事に家まで帰れますように、健康でお幸せに」
と『心の底から』祈ります。

この習慣を始めてみると
なんとなく「余裕」が出る、というか
間違った表現だと思いますが、自分が「神様」で下界の人々の無償の幸せを願うような、そんな感覚に近くなります。
ステージが違う、同じ土俵に上がらない、そんな感覚です。

ちょっと話がずれますが
今まで、例えばレストランなどでは
『店員さんへの横柄な態度は恥ずかしい」のように
人からどう思われるかとか、常識とは何かという観念に
自分の行動が縛られていましたし
マンション上階の子供がすごい物音をさせているときも
「上の子はかわいい姪っ子の〇〇ちゃんだと思って我慢しよう」
と感情に蓋をする思考パターンでした。

ですが、この『幸せを心から願う』を習慣にすると
〈店員さんが今日は良い日だったと、感じてくれるように願う〉

自然と店員さんに丁寧になる

〈上階の子が、ケガなく健康で幸せな1日であることを願う〉

騒げてるってことは健康である証拠だ、と思える
(度を越えてたらしっかりクレーム入れに行きますが)

という風に、「自分の思い込みによるいやいや強制笑顔・思考」ではなく
自分の行動が『本当の意思・希望』から起こるものに変わります。

そんな簡単に他人の幸せ(特にイラっとした瞬間)なんか願えないよ
と言われてしまいそうですが、
私も強烈な香水臭を放っている人とすれ違ったりすると
忘れて「ちっ!」がでてしまいます。
そりゃあ神様じゃないので。。

でもそんなときも改めて
「すごい匂いですけど、いらっとした人に襲われたりしないように、安全に健康にお幸せに」と、ちょっと遅れて神様モードに戻ります。

ポイントとしては、相手の行動や見た目、好き嫌いは完全に切り離すことです。
はじめのうちは機械的にでも良いのでとりあえずやってみることです。
合わなければやめて普通の生活に戻れば良いだけなのでタダです。

今では、徐々にですが人や生き物だけではなく
モノに対しても同じ感覚を持てるようになってきました。
もう「神様モード」ではなくなってきていて
アドラー心理学的に言えば「共同体感覚」になるのでしょうか

大げさに言えば
人間すべてを一つの体ととらえれば
道端に唾吐くお兄さんも、マザーテレサもドナルド・トランプも
自分も同じ人。

だとしたら自分以外の幸せを願うのは
そのまま自分の幸せを願うことなのだろうとも考えるのです。
(俗にいう「情けは人の為ならず」とは似て非なるものです)

最近、寄付や援助についても具体的な行動を始めたのですが
これも「人助け」というよりも自分助けに近いのかなと思っています。

そして私が究極最終形態として目指しているのは
いまこの瞬間
誰かと入れ替わってしまったとしても
どんな年齢、容姿、経済状況の人、動物、モノであったとしても
自分そのままでいられる状態になることです。

そのためには、差別したり、行動や貢献度に優劣をつけたり
そんなことをしているレベルではだめなのだなと思います。

目指す姿の第一歩がこの「幸せ願い」であり
寄付であり援助という行動なのだと信じて
今日も街角の喫煙唾吐きおじさんの幸せを願います。





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