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自由で創造的なデザインについて想いを馳せた。

三度の飯と寝ることが大好きなデザイナーのよしだです。

大阪でソフトウェアのインターフェイスデザインをしながら、最近は新人のトレーナーや研修の企画をしています。

わたしが先日気づいたこと -- 全く画期的でもなく、自然な話ですが-- を書き残したいと思います。

政治・社会的な思想に関する記述があります。
当然
ですが、すべて私個人の見解であり、意見です。

🍙

一昨年くらいに上司に「ユニバーサルデザインに強くなろう。興味がある人は知見をためてくれ」と言われ、わたしは迷わず手を挙げました。

ユニバーサルデザインはデザイナーなら当然しなければ!
これは必ず世の中のためになることだ!

日々、世界平和を願う一般人として、あるいは義務感から勉強をはじめました。

UDについて知るうちにインクルーシブデザイン、アクセシビリティなどの思想(?)を知ったり、本を読んでみたり、どういう人がエクスクルードされてきたのか、その体験はどんなものか、どうすればいいのかを日々考えるようになりました。

考えるようになった(だけ)、というのも、所属している会社では明示的に「ユニバーサルデザインに対応している」と言えるものはあまりありません。

理由は簡単。

“お金と時間がかかるから”

なぜだろう? やらなければならないのは明白なのに、お金と時間をかけてでもやればいいのに…

わたしは実現しない理想に、だんだん意欲がなくなっていきました。

🍣

そんなわけで義務感で始めたユニバーサルデザインは頭のすみっこに追いやられますが、違う思想に興味を惹かれました。
近年話題の「ダイバーシティ」というものです。

ダイバーシティとは、多様な人材を積極的に活用しようという考え方のこと。 もとは、社会的マイノリティの就業機会拡大を意図して使われることが多かったが、現在は性別や人種の違いに限らず、年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメントについていう。 (コトバンク)


昨年の秋。
ある雑誌が休刊になりました。政治論などを掲載する保守派の雑誌でした。

大きな事件になったのでご存知の方も多いと思います。(詳しいことは検索してみてください)

問題となったのはある国会議員の発言です。
一言だけ抜粋します。

『LGBT』支援の度が過ぎる。
セクシュアルマイノリティは子どもをつくらないから『生産性』がない

何がひどいか など語らずとも わかる話ですが、この発言ではセクシュアルマイノリティの人たちだけではなく、マジョリティも侮蔑しています。

子どもは欲しくてもできない人もいれば、つくらない主義の人もいる。
それぞれが選択することです。
私たちは「子どもを産む機械」ではないのですから。

それほど興味のないわたしがこの話題に触れたのは、友人が激怒していたことがきっかけでした。
友人はマスメディアに関わる職で、もともとこういった情報の感度が高く、博識な自慢の友です。(ちなみに出会ったのは同人誌即売会です 笑)

たまたま食事をの予定があり、そこで友人の怒りを聞き、「ひどい差別だ」と思いました。

ただ、この時は「そういうもんだよな、この社会は」とも思っていました。

差別はダメです。そんなことは知っています。

では、無くなるか?

きっとどこかの誰かがしているから、無くならない。曲解する人もいるし、理解できない人もいる。優しい人ばかりじゃないんだ。わたしも、みんなも、多少の差別は受けているし、してしまうじゃないか。

本当にそう思っていたのです。

でも、なぜ友人はこんなにも怒って、何かを変えようと行動しているんだろう?

気になって、気になって
次の日、片っ端から件の記事やSNSで意見を調べました。

涙目になって話してくれた友人の言葉が少しずつ理解できるようになっていき、気づけばわたしはPCの前でものすごい憤怒で感情がぐちゃぐちゃになって、泣きながら記事を読んでいました。

こんな”あからさま”な差別を容認するなんでおかしい。
社会に関わる、人と人が関わる際の基本的な思想だと思いました。

ダイバーシティに興味を持つ大きなきっかけになりました。


この話がデザインになんの関係があるかわからない?
そうかもしれません。でも、すみません、もう少しだけ、お付き合いください。


もうひとつ、わたしの思考が変わったきっかけになった できごと があります。

ほんの数日前のことです。

いつものようにTwitterを見ていたらある作家さんと“フェミニスト”と呼ばれる人が炎上していると目にしました。

作家さんの作品は好きで読んでいたこともあり、この人のタイムラインを見に行きました。

(前後の流れも正しく知りたい方はまとめ記事などを検索してください)

作家さんの発言
「少年向け漫画が少年を対象にしている以上
 作品内で女性が不快な気持ちになる描写はあり得ます。
 合わない人は読まない自由を行使していただくしかないです」

他にもご意見を書いてらっしゃいましたが、本筋ではないのでこれだけ。

これを見て
「ふぅん、なんだ、炎上しているから
おかしなことを言ったのかと思ったけど、当たり前のことを言っているじゃないか。」

そうしてわたしは納得してこの事件とわたしの関わりはなくなるはずでした。

日頃からいまいち “フェミニスト” と呼ばれる人々が何を訴えているのか理解できていなかったわたしは
「同じ女性だけど、そういうものなのかな。生きてきた人生の違い? きっと、わたしにはわからない差別を受けて、考えすぎで怒っているんじゃないかな」
と思っていました。

この記事に会うまでは。

「普通の女の子」に炎上してるアカウントを譲ったらフェミニストになった話

この記事はぜひ読んでいただきたいです。わたしよりもずっとわかりやすく、解説されています。

先ほどの発言の何が問題だったか、上記の記事の中で丁寧に記載されています。

●●向けだから●●以外の人が傷ついても仕方のないことだ。

●●が例えば「白人 / 黒人」「健常者 / 障害者」だったら、
“それは違う”とわかりますよね。

この日、わたしにかかっていた“洗脳”(あえてこう言います)は解けてしまいました。

男女という性差について、

生活していて少し引っかかる表現に、わたしは「何も言わなかった」
自ら差別されていることを容認していた。

それを選んでしまっていた

きっと作家さんも無自覚だ。

あの人だけじゃなく、多くの人が悪意なく、差別している

なんて、怖いんだろう。

この記事を読んで欲しくて、リツイートボタンを押しました。

こういうのって、結局その表現を無くせば満足するの? 
そんなこと言ったら、ぜんぶ規制がかかるじゃん。
わたしが好きな作品も、例えば浮気、ケンカ、戦争、エロコンテンツもぜんぶ表現に入れられなくなる。

RTの先にはこういった意見を言う人がたくさん、男性も女性もさまざまな人が言っていました。

違うのです。

これは“制限”の話ではないのです。

お茶汲み、サラダの取り分けに始まり、職業も結婚も「女性だから」を理由にされていたコトから「あなただから」が理由にでないと、自由ではありません。

ずっと“自由”の話をしているんです。

そう思ったらこれまで義務的にやらなきゃ!と考えていたユニバーサルデザインもアクセシビリティもダイバーシティも同じ話をしていると気づきました。

どうしても性差の話になると理解にフィルターがかかるので、別の話にしましょう。

例えば

建物の入り口にスロープをつけることで、
車椅子や脚を高く上げるのが困難な人が
建物に入る / 入らない を「選べる」ようになりました。
読み上げ機能に対応したウェブサービスにすることで、
目に障害をもつ人たちは
サービスを利用する / しないことを「選べる」ようになりました。

「選べる」ことこそ、自由です。

そして、自由と共に新しい可能性を得ることができました。

建物の中には何があるのでしょう?
服屋さん? ケーキ屋さん? それとも絵画教室とかかも。

ウェブサービスはどんなものでしょう?
新しい商品の宣伝? ミニゲーム? ウェブツール…noteのような記事を書けるものかも。

自由とともに、創造する可能性を得ました。
クリエイティブの楽しさは、みなさんも、きっとご存知ですよね。


ああ、なんて「人間らしい」のだろう。

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。(世界人権宣言)


ユニバーサルデザインや、アクセシビリティが目指しているものだと感じました。

🍜

そして、わたしの中の「良いデザイン」とは何か? という命題もアップデート。

デザインの基本は伝えることだと考えていますが、
良いデザインは つくったものが「日常に溶けて普通になること」かな、と思いました。
心震える感動も、かわいいもかっこいいも、便利もぜんぶ、誰かの中に入って、それがその人の一部になったり、弾かれたりする。選ばれたり、選ばれなかったりする。

わたしはその人の日常に馴染むようなものを作りたい。

最初は感動して「すごく使いやすいよ!」なんて言ってもらえたら幸せだけど、そのあともその人の手足みたいに、体に馴染んで、日常的に使われるようなものをつくりたい。

グラフィックだって、きれいだとか、かっこいいだとか、何かを思ってもらえて、それがその人の中にずっといるようなものにしたい。

メインターゲットの定義はいる(かもしれない)けれど
「それ以外の人」が使えない、見れないものじゃダメです。

それ以外の人も「選ぶ自由」があるはず。

わたしはいち表現者として、わたしが「無自覚な差別」をしないためにユニバーサルデザインやアクセシビリティといった手法を知ろう。選ぼう。

自由をめざすことを選ぼう。

わたしはこれで、わたしの人生を選ぼう。

そう気づかせてくれたのです。


これは余談ですが、私の中で「人生」という命題についてはあるゲームのセリフから定義しています。
「人は死ぬと分かっていながら、なぜ生きるのか?それに意味はあるのか?」という問いの答えです。

生きることに意味はないよ。
どんな人生を歩み、どんな選択をし、何を残すか
死んだときにこそ、その人生がどんなものだったかという意味が生まれるんじゃないかな。


🍚

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。これはわたしから私への私信のようなもので、誰かの思想を変えるものではありません

ここに書いてあることを何ひとつ受け入れられない、理解できないという人もいるかもしれません。

タイトルには「デザイン」と入れましたが、デザインはデザイナーだけがするものではありません。
デザインは伝えることです。
「伝えること」は人と人が関わることで生まれます。
だからこの社会に関わる全ての人が、デザインをする人です。

私信ではありますが、職業としてデザインをしている人には「理解」してほしいと望みます。

それは何かを伝える表現者が、誰かを無自覚に傷つけることはあってはならないと思うからです。

わたしのこの言葉たちが、あなたの中に入って、いつか、あなたなりの自由を見つける一欠片になっていれば幸いです。

おわり🙏


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