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日本語教育機関の類型化〜なぜ教師の資格と一緒に議論するのか

今回は日本語教師の資格の議論と日本語学校の類型化の議論をなぜ一緒にするのかについて,私の考えの変化をまとめました。

会議の流れ

日本語教師の資格に関する調査研究協力者会議第3回が2月26日に開催されました。オンラインでも傍聴可能でしたので,傍聴した方もいらっしゃると思います。

少しおさらいをしますが,この会議,第1回が開かれた後でしばらく間が空きました。そしてその間,資格化の動きが進展しているという情報がなく,逆に数少ない情報は資格化に後ろ向きなものがほとんどでした。
資格化に後ろ向きなweb上の情報を見ると,不正確なものや憶測で書いてあるもの,ある立場で議論を誘導する意図が見えるものなどが一部散見され,何を信じていいかわからない状態でした(そういう記事に興味のある方は「日本語教師 国家資格 なくなる」などで検索してみてください,正確なものからほとんどウソまでいろいろ出てきます)。
私自身もいろんな人に話を聞いて,多面的に情報を整理しようとしていましたが,得られる情報に矛盾があり,どうも総合的に見てうまくいってないなということぐらいしかわかりませんでした。そして,これはもしかしたら資格の議論が「がらがらぽん」になるのではないかと感じていました。

それで投稿したツイッター

ですが,私が欠席をした第2回の議事概要(議事録みたいなもんですね)に以下のようにありました。

この協力者会議の場においては、国家資格化という前提で議論して良いのか。
→資格及び類型化の法制化を目指して検討を進めているため、国家資格化を前提として御議論いただきたい旨、事務局より回答があった。

ということで,ひとまず,国家資格化を目指すということはここで明確になったと言えるでしょう。

この会議で議論すること

この会議の名称は「日本語教師の資格に関する調査研究協力者会議」で,一見すると資格のこと(だけ)を議論するようにも見えますが,会議の設置趣旨等には,当初から日本語教師の資格創設と日本語教育機関の類型化という二つの論点が明記されています。
ですが,私自身がこの会議に関わっていて,自分の役割として認識していたのは,資格化の議論に関することだけで,類型化についてはあまり意識をしていませんでした。
もともと,私は,教師の資格化と教育機関の類型化という二つの論点は,ゆるやかなつながりはあるが,完全に重なり合うものではないと考えていました。そして,この二つは分けて議論し,必要に応じて二つの制度がつながりを持つような運用にするのがいいのではないかと考えていました。
ですが,第2回以降の議論(第2回の資料4が全体の課題を網羅しています)では,まず教育機関の類型化をして「日本語教師の業の範囲」を決め,その範囲に収まる人たちに資格を付与するという方向で動き始めており,資格化と類型化を一体として議論することが明確になりました。

しかしながら,類型化の議論というのは,なかなか難しいものがあります。
たとえば,第3回の会議(資料2)(資料3)で,まず日本語教育機関の大枠三類型案が以下のように提示されました。

留学→法務省告示日本語教育機関(及びそれを目指す機関)
就労→就労者向けの日本語教育を行う機関
生活→地方自治体(公的な性質を持つ地域の日本語教室)

私自身,「留学」「生活」は具体像がイメージできますが,「就労」はイメージが湧きません。就労の教育機関の認定基準なんて作れるんでしょうか。また,その基準を満たして認定を得たいと思う機関があるでしょうか。私の限られた知識や情報の範囲で考える限りは,これはかなり難しい話です。
じゃあ難しいからやっぱり類型化はとりあえず「棚上げ」して,資格化の議論だけするかというと,そうじゃないかもしれないなあというのが,最近,私の考えが変化してきているところです。

なぜ資格化と類型化を一緒に議論するのか

第3回会議に出席するまで,私は当初考えていたとおり,資格化と類型化は分けて議論した方がよく,まず資格の議論をしっかりするべきだと考えていました。それで,第3回会議で意見を出そうと思い,改めて国家資格についていろいろと調べてみました。すると,どうも自分はとても狭い視野で国家資格化を考えていたのではないかということに,ふと気づきました。

国家資格にもいろいろあります。司法書士や行政書士,社労士など,資格取得が難しく,業務独占資格であるもの。このようなタイプの国家資格は,それを取得することで,ある程度,仕事と生活の見通しが立ちそうなものです。一方で,それほど難易度が高くなく,資格自体が他の制度とも結びついていないため,広く門戸が開かれているようなタイプの国家資格もあります。このようなタイプの国家資格は,持っていたら就職の時に多少考慮されそうだなという印象です。少なくとも,資格の取得が仕事や生活の見通しにつながるためには,他の関連する制度に組み込まれている必要があります。その最たるものが業務独占という仕組みです。

では,日本語教師の資格はどうでしょうか。私が当初考えていたように,資格の議論を単独でやると,確かにあまり時間をかけずに資格化が実現するかもしれません。ですが,資格の議論を単独で行うと,

持ってても持ってなくてもあんま変わんないんだけど,持ってると就職の時に多少有利になるかもよ

というような結果になる危うさがあると思います。そして,そんな資格をわざわざ国家資格として作る必要があるのかと問われると,私自身は明確に反論できなくなります(それでいいという人もいるでしょうが)。

日本語教師の資格が名称独占資格であるという位置付けは,おそらく動かしようがないと思います。では,名称独占の範囲内で,どのように制度的な位置付けを明確にしていくのか,これが資格保持者の社会的位置付けに深く関わる重要なポイントになります。そうすると,どんな場で教える人のためにこの資格を創設するのかという観点から,日本語教育機関の類型化と資格化を一緒に議論するというのは,確かに理にかなった進め方なのだと,今さらながら気づきました(ほんと,僕はこういうことに気づくのが遅いです…)。いやあ,小委員会で2年も資格化の議論に関わっている中で,一度もこういうことに気づきませんでした。今回は,その反省も込めて書いてみました。

とはいえ,類型化の議論,はっきり言ってめちゃめちゃ難しいです…

これはまた次回以降

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