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適者生存か、ルート変更か




環境に適応するか、それとも環境を変更するか

という問題がある。

環境に適応できるならそれに越したことはないが、正直言って、「合わない」とはっきり思える、かつ環境を変更することが可能であれば、さっさと環境を変えた方がいい。

その境界線、つまりどこまでが環境に慣れるための「努力」で解決できて、どこまで行ったら「環境そのものの問題」かというのは、個人差と環境差もあるので、ご自身で判断ください、としか言いようがない。迷うのであれば信頼できる家族や友人に相談してほしい。最終決断はやはり自分自身に委ねられるが。

しかし、大抵の場合、そう気安くほいほいと生存環境を変えられるものではない。

それでも、「環境を変えろ」と言うのは、私自身が「適者」であるが故に感じる弊害を、さて生きる上で「必要不可欠」な通過点だったかと言われれば、「そうでもないな」と思うからである。




「~さんって、男女関係なく仲良くできるし、どこに行っても適応できそうというか、なんでもそつなくこなしそうな、そんな感じがする」
今日お昼を食べるとき、そう言われた。

それで思い出したのだが、
中学3年生のとき、転校した学校のクラスの男子数人に、「先輩」というあだ名で呼ばれていた。一人が呼び始めて、周りの子が真似して呼び始めたのだが、理由はこうだった:
3年から転校してきたはずなのに、なぜか1年のときから一緒だったみたいな雰囲気で、そうだと言われても誰も疑わないくらいには馴染んでいた、らしい。それで、なんか強そうだから「先輩」らしい。
よくわからないが、なかなか面白い奴だったと記憶している。

「適応能力」について、色んな場面で色んな人に言われるのだが、就職のアピールポイントに書けそうだし、長所として面接のときにネタになるかなと、今日改めて思った。


ただ、自分の適応能力に限って言えば、それはひっくり返すと、ある程度は自分を型通り変形させ、押し込み、その環境に「在るべき姿」をその都度分析する、模倣犯じみたところがある。ときどきだが、これを窮屈に感じる。
ただ、この能力によってもたらされる恩恵があることは否めない。「八方美人」の良し悪しと適応するためにした努力は一言では片づけられない。
にしても、キャラデザに沿った独り芝居を延々と繰り広げてしまうことも、正直どうかと思う。

人生そのものが大きな一つの「芝居」であることは、あながち間違いでもないが、問題なのは、芝居自体に縛られ過ぎること。
自分を演じることはともかく、自分はこうであるべきだとか、他人がああであるべきだとか、観客の目が期待するシチュエーションばかりのために、手足を振り上げては降ろしていると、「舞台」の完璧な操り人形の出来上がり、と言うわけである。

『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)という映画をつい去年末に観た。
主人公トゥルーマンが自分の人生そのものが何かの演目ではないかと疑い、周りにいる家族、妻、友人、通行人、街のおかしな所を次々と見つけて行くのだが…のような話。この映画にネタバレも何もないのかもしれないが、これから観る人のために内容は割愛しておく。
それで、「トゥルーマンショー症候群」という精神障害があることをネットで見かけた。今時なんでも「症候群」やら「病」やらとつけて、人の機微を分類して病名をつけたがるな、という文句はさておき(実際に病名が判明し、それによって苦しめられた人に適した治療や対応ができること自体はいいことだと思うから)、ああ、自分も似たようなものかもしれないと思った。

常に、誰かに監視されているように、「正しい」ことを、「正しいと思う」ことを行う、台本通りに演じる「いい」役者。
この「役」に「自分」が破壊されないために、いい具合に演じるには、それなりのテクニックと心へのフォローが必要だった。たとえば演じること自体を演じるだとか、これはNGというルールを設けるだとか、真と偽をごちゃ混ぜにして騙るだとか、その渦中に「本物の自分」を隠したりしてね。それで、自分に限らず周りを取り巻く色んな人が色んな芝居を仕掛けて来るのだが、正直こちらがベテランになって仕舞えば、何もかも茶番じみてくる。それこそ「トゥルーマン」みたいに、笑顔であのセリフを吐き捨てるくらいでないと、「役者」なんてやらない方が得策だと思う。

In case I don't see you, good afternoon, good evening, and good night!

The Truman Show



だから冒頭で話したように、「合わせる」よりも、いっそのこと環境を変えろ、と周りの人に言い続けてきた。こんな「役者」になるくらいならね。(もちろん、役者についてあまり言及はしないがな)

成長過程で度重なる不本意な転校を経験してきたので、好きでこうなったのではないことは断っておく。こうなってしまったことに対し、自分に責任が全くないとは言わないが、代わる代わる環境で生きるためにつけた生存スキルのようなもの。
だが、転校を重ねることによって見えたものもある。同じ「学校」でも、それぞれ雰囲気やら色んな物事がかなり違う。自分に合う学校があれば、合わない学校もあった。子どもである自分の意思で環境を変更することが(おおよそ)不可能だったので、合うも合わないも、「己」を最大限保存した上での「合わせること」に特化した生き方を選択しただけのこと。

だから、自分の意思で環境が変えられるのであれば、「変えてみる」ことも手段の一つ。それが「逃げ」かどうかは個人の考えようであり、『逃げるは恥だが役に立つ』という作品名があるように、「逃げ」であっても「役に立つ」のなら結果オーライではないか。
もちろん環境が変わることによって新たな課題と恐怖がもたらされることも否めないが、それでも、努力と能力でどうにもならない場合、すべての非が馴染めない自分にあるのではなく、身を置く環境そのものに問題があるのではないか、とまず疑ってみることも大事だと思う。それで、可能であれば環境を変えてみることが大事だと思う。


いままで聞いた「合わないと思う環境を変えたら、結果的に見て正解な判断だった」という話で、変えたものが学校であったり、仕事であったり、人間関係であったり色々だが、むしろ「環境が変わって悪化した」話の方が少ない。なぜなら、「変える」までは、変えた後のルートの良し悪しは未知であるが、変えた後が悪かった場合でも、変えなかったルートが詰んでいることは既知であるから。

確かに、色んな社会の「輪」で生存するには、共同作業なだけあって、少なからず協調しなければならない場面も多々ある。しかし、「完全に」合わせる必要、適応する必要なんて端からない。「適応できる」ことであればそうするけれど、「できない」ことは結局「できない」からな。
そもそも、人間というのは一人ひとり全く別個体であるはずなのに、完全な協調性を要求する方が反生物的であり、無理難題というものだ。

だから、もし「詰んだな」と思うのであれば、努力も必要だが、「ルート変更」を念頭に置いておこう。「適者生存」なんて当然過ぎる理屈はくそくらえってね。

自分自身でおありなさい。弱気のために喋ったり動いたりすることを断じておやめなさい。断じてやめようと願いなさい。そしてほんの一時間でもつづけてご覧なさい。すればそのうちきっと何か自分のアプリオリというか何かが動き出して、歌うことができます。

中原中也


ということなので、歌いますか。


2024.2.13 星期二 晴れ


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