理にふれるということ
プラトンの魂の三分説というものがある。
魂を三つの性質に分けて考えると
・理性、理知(ロゴス)
・気概(テューモス)
・欲望(エピテューミア)
である、というものだ。
高校の時の倫理でなんか聞いたことある気がする…
(倫理の授業、とっても好きだった)
ものすごく乱暴に説明すると、欲は生きていくために必要なもの、気概は感情や思考の人間的な部分、理性はそれをコントロールするもの、という感じかな。
この、理性というものを働かせるときには、理(ことわり)というものが土台にある。
なんで易?
「なんで易なの?」
「易を深めていって、どこを目指しているの?」
易ってそもそも何?って人が多い中、私が易を選び、学び続けている姿に、ありがたいことにこうやって疑問を投げかけられることがある。
(その人にとっては、単なる雑談の範囲でしかないかもしれないが)、私は、暑苦しくも語りだす。
それは、易が理の書だからだ、と。
そして、悠久の時間に折りたたまれた人々の想いに打ち震えるからだ、と。
私は、まだまだ、という言葉では足りないくらい、まだまだ人として未熟で、
そして、若いころはもっともっと足りない人間だった。
苦手な物事は克服するものだと本気で思って、部活や行動を選び、
それは、負けず嫌いからくる意地であるにもかかわらず、
まぁ、それなりに努力もするもんだから、ゆがんだ自信とプライドをつけたりして、
自分にも他人にも厳しいという、モンスターだった。
(だったって書いたけど、今でもそういうところある)
そして、そうやって立つことをよしと思っていた。
これが、生きづらさから来たものだったらしいと気づくのは、すっかり大人になってからだったと思う。
そして、いろいろな分野の学びや癒しとであっていく。
易と出会う前に、陰陽五行と出会った。
正確には、陰陽五行は知っていたけれど、私が門をたたいた先生は、陰陽五行の使い方を語る人ではなかった。
宇宙の始まりと今とをつなぐ時間と空間を、陰陽五行という理論から説明する。
陰陽五行論の世界観で、この宇宙を観ると、どう説明することができるのかを、ものすごく情緒的に、だけれども、内容はとことん論理的に教わった。
この「論理」、道筋が通っていることは、私の大好物に他ならなかった。
「そういうもんだから」って言われても、飲み込めないこともある。
そうやって置き去りにされてきたものを、全部全部、伏線だったかのように回収してくれたのが、この、陰陽五行と易、東洋思想との出会いだった。
人は、ゆれうごく生き物である。
常に、鼓動をうち続け、心電図で見れば、波形は揺れ動き続ける。
感情もそう。泣いていたかと思った人が、5分後に笑っていることは珍しいことではない。
その、揺らぎに時折、心が折れそうになるのもまた、人である。
挫折や絶望を体験したことがない、という人はいないのではないだろうか。
その、揺らぎが一体何なのか、私にとってどういう意味があるのか、
もっというと、なぜこの揺らぎを体験しなければいけないのか、
なぜ、私は今ここにいて、だれなのか…私がいる意味とは…
そういう、答えがない問いを、もったことはあるだろうか。
私は、そういうものにがんじがらめだったことがある。今もある。
でも、その問いに対する道筋を与えてくれたのが、易だった。
私は私でしかなくて、
隣人は隣人でしかない。
ひとりだけれど、独りではない。
ひとつに繋がっているけれど、ひとつでもある。
宇宙が、理論で「わたし」を承認してくれた瞬間だった。
頭が固くて、頭でっかちで、
考えるより感じろ!って言われてもピンとこなくて、
自分の感覚も直観もよくわからなくて、
よくわからないから、信じられない。
そんな私には、理であるからこそ、理解ができた。
そして、その理は揺らがないからこそ、いつだってそこに立ち返ることができる。
私は、幼き頃の私が、易に出逢っていたらどんなにか…と思う。
学びを深め、なるべく言葉にして記していきたいという想いを、私が抱くのは、
今、大きなゆらぎの中にいるあなたが、
理の世界に触れることで、きっと理が支えになってくれると確信しているから。
感覚でつかめない何かを
きっときっと、理がやさしく教えてくれる。
理にふれることは、いきていくこと。
だから、美しい。
ありがとうございます!