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リツイートが可視化したものについて

 今日はリツイートについて書く。
 Twitterをインフラ的にみんなが使うようになったことの良い面の1つとして、リツイート(RT)が挙げられる。
RTはズバリ引用であり、自分の発言ではない。他人の発言と自分の発言を明確に区別する機能や習慣が可視化される形で導入されたわけだね。
私はあまり学がないので未だにわかってないが、日本語における引用符の使い方も初等教育で習っておきたかったな。
仏文学や英文学なんかは聖書の引用をするイメージがあって、習慣として引用符が身近なのかもしれないと思った。
日本の古文における引用と言えば本歌取りってのもあるけれど。

 Twitterの場合、基本的には誰でもアクセスできる公開のタイムラインに引用していくから、たとえばデマゴーグや誹謗中傷を引用した場合にRTした人は罪に問われるのかとか、ルール・法律面の整備は日進月歩だった印象だ。
 webサービスなんかは顕著だが、常にベータ版というか、法律も常に過渡期で、今後も完成と言えることはないように思う。

 ぼくは自分が代表をやっているアートグループの展示会で『公共にRT』という作品を展示している。
 ツイートを模した紙に140文字の書評を書いて、壁に貼って展示するというものだ。思惑としては画面から飛び出して公共空間に、フォローしていない他人のツイートが表示されていたら愉快だなという、出会い頭のイタズラ心だった。

 クリエイティブ系の仕事を受けるとレファレンスとして既存作品を参照するように言われることも少なくない。
ブレイクビーツなんかも最初はそうだったのかもしれないが、切り刻まれて材料にされるためにクリエイティブをしたわけではないだろうにと思うこともある。生成AIに反対している人たちの中にもそういう人はいるだろう。
 一方でそもそも、勝手にミュートされたりレコメンドされたり、文脈がバラバラにされた結果、異なる文脈がでっちあげられてたり。
はた迷惑なことも多い一方、それは言い換えれば編集やアルゴリズムの存在が可視化されつつあるということでもある。
 キュレーターの価値が上がるのか。それともAIにアルゴリズムを学習させてキュレーションさせるほうがいいのか注視したいところだ。

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