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われわれはみな退屈する

本文は、2013年3月(noteはじめるまえ)にFacebookに書いたものの掘り起しです。「暇と退屈の倫理学」の感想文ですが、本論とはあまり関係なく「人間以外の動物だって退屈するっすよ」といういちゃもんが私の一番言いたいことだったようで。当時は子供が欲しいけど望み通り授かるかどうかについては悲観的で、この先の長い人生、どうやって暇つぶしすればいいかと呆然としていた感があります。5年たった今、二人の小さな子供がいて、わたしには退屈を哲学する贅沢なんてない。でも、自分の時間を貪欲に楽しむ贅沢をとりもどしました。思うところがあり、手直しなしで再掲します。

今週後半は休暇で実家のある岡山に行っていた。妹の仕事が終わるまでの間に、ひとりで近所の水族館に足を運んだ。子供の頃に良く来た小さな小さな水族館だ。最近読んだ退屈論の書き出しに「動物は、健康で食べものが十分にある限りに幸福である。人間はそうではない。」というのがあって、本論とは関係なくひっかかっていた。自然にそのことを考えながら魚たちを眺めた。

動物だって退屈するよねと私は思う。うちのオカメインコのムクさんは、遊んでもらえないと抗議する。丸一日カゴから出してもらえないようなことがあろうものなら怒り狂い、出してあげてからもしばらくはプンスカしている。逆に、心行くままに床を探検したり、お気に入りの鏡をのぞいたり、飛び回ったあとには心満たされ、人の肩に落ち着いて甘えてくる。じっと毛づくろいするだけならカゴの中でもできるのに。餌が十分にあって健康でも、幸福ではない。動物も退屈する。犬や猫のペットを飼っている人なら、知ってるよね。

君は幸福か?地元の水族館でさかなたちをのぞきこみながら観察してみた。

筒にギュウギュウのアナゴたちや、ツボに収まって一定のリズムで呼吸するタコは、一見充足しているようだった。キラキラ光を翻しながら筒のなかを回り続けるイカナゴも、自分が囚われの身だということにすら気づかずにいるようだ。オウムガイに至っては、そこに呼吸器があったんですか!という驚きが先立ち、表情など読み取りようもない。

一方で、大型水槽の巨大な魚は、食べ物は十分にあり外敵からも守られていて、冒頭の定義で言うなら幸福な所だが、重なりあって水槽のそこに淀む姿は、幸せにはみえない。自然の中にいれば、日々刻々と変わる潮の流れを全身に感じ、獰猛に、小さな魚を...切り身ではなく生きたやつを、狩る種族なのだ。白濁した目の一匹などはその視力を失ったことでとっくに自然淘汰されているのだろうが。肉体の死の前に、精神が死んでいる...ように見えた。

一匹で水槽に閉じ込められたアカウミガメの子は鬱っぽかった。水槽を軽くノックすると薄く目を開けるが、やがてまた閉じて身動きもしない。ペンギンも退屈しているようにみえた。ダイビングで目にした、悠々と水草を食む野生のウミガメや、人工雪さえ降る有名水族館のキャピキャピしたペンギンとの比較に依る想像だが。刺激を奪われた彼らは、怒りを通り越し、やがて諦め、精神の動きを止め、体さえ動かせなくなっている、つまり鬱だ。退屈が極まった不幸。

人間のわたしが思う海の生き物たちの精神など推測にすぎない。コウイカは、水槽を軽くノックするとめまぐるしく色を変える。刺激に反応する。ということは、刺激に乏しい状態はその能力を発揮させる場がないから退屈?それとも、平和のなかでぼーっと満ち足りている?どっち??とか。しかし、眠たそうにもみえる彼らの漆黒の目は(人間的な価値観で言うと)無表情で、幸福の度合いは読み取れない。

わたしがまだ小さい子供の頃から相変わらずそこにいる「ねこざめ」の標本にも再会した。とっくの昔に中身をとりのぞかれて皮だけになり年季を経てベージュに変色したやつ。こればっかりはハッキリ線引きできた。そのねこざめは少なくとも、もう退屈していない。死は、われわれを開放する。退屈から。不幸から。そして幸福からも、永遠に!

人間以外の動物にも退屈は訪れると私は信じている。食べ物が十分にあってもそれだけでは幸福とはいえない。退屈により精神の健康を壊すことで肉体も活度を奪われ、衰弱する。時に心がフリーズしたまま、肉体だけが生きているような状態にもなる。人間だけではない。そういう確信を深めた水族館訪問だった。

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