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対話は得難く、美しい - パールズ

キャリコン学者のなかから、ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズを紹介します。理論よりもその世界観をお伝えしたくいつもにも増して試験には役に立たない余談モリモリです。

明治神宮の夜間参拝

先日、明治神宮の夜間参拝に参加してきました。(普通は16時の閉門以降は入れませんが、そのためのワークショップで)

閉門後の静かな境内を、白い上着を付けた他の30人くらいと一緒に、2列に並んで、ザッ、ザッ、ザッ、と砂利道を踏む足並みを揃えて進みます。

宵闇が迫る、逢魔が時(夕方6時ごろ)

途中までは、参道に並行して走る電車の音や原宿の街明かりが入るけれど、二の鳥居を抜けるあたりから、結界に入ったかのように静かになります。

黒々とした木影、湿った土や落ち葉の匂い、何かの生き物の声、頬を刺す冷たい夜気…ああ、登山っぽい…!

石畳の上に座り、大祓詞を唱えます。

つみといふつみはあらじと はらへたまひ きよめたまふこと

私は、独身時代に毎年のように通っていた初夏の八ヶ岳の開山祭で、神主さんと一緒にご来光を目指して登頂したことを思い出しました。

登山は行為そのものに穢れを祓うはたらきがある気がしていましたが、今日のこの空気、やっぱり、それにとても似ている。開山祭は昼間で、歌ったのは「星よ岩よ我らが宿り」という山の歌だったけれど。あれは、山の神様への祈りと、そこで亡くなった方への鎮魂の儀式だった。

一神教と多神教

お参りの前には講話がありました。

外国人や他宗教の方に対して神道を説明する機会も多い禰宜さんが(明治神宮ともなると、広報的なそんな役割もあるんですね)、一神教と多神教とが対話(=Dialogue、会話よりも分かりあうニュアンスを含む)の難しさについてお話くださいました。

ある一神教の方が「”わたしにはわたしの神があり、あなたにはあなたの神がある”などというのは許容できない、知的スラムだ」と言ったという。敬虔な信仰を揺るがす他宗派との対話は恐怖だと。

参加者はそれこそほぼ全員が神社好きの日本人でしたから、「ええ!これだけダイアローグ大切と言われる時代に?」っていう反応でしたが。

同時に、映画「薔薇の名前」とか「アメリカン・ビューティー」とかに象徴されるような不思議な歪みを想起しました。多神教の視点からみると、それが強要できないというほうが、知的牢獄に閉じ込められているようにも思えて他人事のように感じるけれども、実は、誰にでも(自分にも)そういう限界…自分でこれが輪郭だとおもっていて、踏み越えられないものはあるのかもしれないな。

そこで私は、パールズの理論を思い出したというわけです。

パールズのゲシュタルト療法

フリッツ・パールズは「ゲシュタルト療法」の提唱者です。ゲシュタルト(Gestalt)とはドイツ語で「豊かな全体」「形象」を意味します。

その代表的な手法であるエンプティ・チェア(イメージの中で空の椅子を目の前に置き、そこに自分の中にいる誰かに出てきてもらい、向き合って対話する)は、ヒプノセラピーでもよく使います。心の動きに連動して表情や身体にあらわれる緊張を手掛かりに、自分の中の他者に気付いてもらう。

有機体である人間が、自分をとりまく環境と創造的・建設的に統合することを目指すから、Gestalt(豊かな全体)というわけです。

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さて、そのパールズは、ベルリン生まれのユダヤ人で、ナチスの迫害で故郷を追われて渡米しました。鈴木大拙の禅の思想の影響を受け、京都で修行したこともあるとか。夜間参拝の途中に彼を思い出したのはそのせいかな。

ここに、彼がワークショップの際に好んで朗読していた詩があります:

I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. You are you, and I am I, and if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped. (日本語訳:私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。私はあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたも私の期待にこたえるために生きているのではない。私は私。あなたはあなた。もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ)

私は、ラストのセンテンスがぴんと来ませんでした。「しかたのないことだ」って、どういうこと?

この詩は個人主義的です。多神教っぽいけれども、同時に、どこか一神教なにおいもします。ああ、寒色系。パールズは、マズローの人間性心理学やジェンドリンのフォーカシングに類する寒色系の「今、ここ」フレンズなんですね。

私の「怖い」は何か

自分の潜在意識をのぞき込むヒプノセラピーを「怖い」という人がいます。自分が蓋をしているかもしれない、何か強烈かもしれないことを知ってしまうと、今保っている自分の輪郭が崩れるかもしれないと。

そうですね、忘れていた記憶がよみがえって感情が引き出されるというと、空恐ろしさを感じる人もいるでしょう。

けれど多くの場合、怖いというのは心の可動域が狭くなっているだけなのです。分からないから、怖いのです。恐れて回避し続けるよりも、直視してしまうと案外なんてことありません。数十年を生き抜いてきた自分の、生命力を信じ、全体性に頼っていいのです。あなたがそれを受け止められないと思っても、あなたの身体はそれをすでに受け止めて生きています。

自分と対話をしてその恐れの正体を知れば、その後が生きやすくなる、それがセラピーの目的だと思います。

対話は得難く、美しい


参拝を終えてすこし背筋が伸びたような気持になった帰り路、わたし自身に、対話が怖い何かがあるとしたら、どんなものだろうかと考えました。

そういえば、いつか再読しようと思って(子供の時によんだきりだから)Kindle版で買ってあった小泉八雲が携帯の中にあることを思い出しました。

電車の中で読みはじめたら、のっけから幽霊話で(まあ小泉八雲は全部が幽霊話と言ってもいいのだが)、さらっと読める短編のオチに、背筋の凍る気分を味わいました。

同時に、その恐ろしい文章がとても端正で、改めて感動しました。

文化を超え、言語を超え、これだけの美しい文章を認めるって、凄い。

パールズの詩の最後の一文、

"if by the chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped."

本日の講和と八雲の衝撃を受け、わたしはこう訳してみます;

「対話は得難く、美しい。」

どちらさまも、ハッピーなライフキャリアを。

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