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ある詩人のイディオレクト5

【葉もれ陽の時節】

 子どもたちも随分と大きくなった。途中で引っ越した実家のあるこの日野の地にも随分と馴染んだようだった。

 自身の方針は決めたものの、日々の仕事の中でなかなか最初の行動を起こしかねていた。もちろん、戦後の物資不足の中、いち早く『童謡詩人』の志を継ぐ横堀先生の『童謡祭』や長野県の『童謡人生』などあちこちの同人誌に詩友として参加してはいた。しかし、自身で後進を育てることには手を付けあぐねていた。

 日野に戻ってすぐ、『炬火―TORCH―』の編集人を有志に頼まれた。ラジオで多くの曲がかかる作詞家・細川雄太郎が地元に帰ってきたからということだろう。もちろん、ここでも編集の傍ら自身も詩を発表してきたし、師匠である横堀恒子や体調が快復した関沢なども寄稿をしてくれていた。

 生活が少しずつ落ち着いてきた時、『童謡詩人』に「海へ行く道」という童謡詩を送った。この時のテーマは夏の海で、滋賀県の人が「うみ」と呼ぶ琵琶湖ではなく、この日本を取り巻く本物の海へ向かう心情を綴ったものだった。

 この詩は、そのまま掲載されたが、横堀恒子先生からの時評は手厳しいものだった。

――「あの子はたあれ」「ちんから峠」で有名な人。わるくはないが、作者の持ち味を前面に出した童心あふれたものを拝見したい。

 ショックだった。ラジオから流れる自分の詩に慢心していたわけではない。いくつもの秀作から、「これ」と選んで磨きをかけたものだった。一方で、「本当にこのままでいいのか」「故郷を思う気持ちを歌にする最良の形がこれなのか」と逡巡したもの事実だった。

 ポイントを絞った師匠の言葉に頭を殴られた思いだった。丁稚で遠く群馬の地で働いていた時代、一から手ほどきをしてくれた横堀先生だからこそ、この言葉がいえた。すなわち、昔、何百とみてもらった詩と比べて、あふれる童心が抜け落ちていると先生は指摘したのだ。

 童心を突き詰めて考えると、どうしても「ふるさとを思う気持ち」から離れられない。童心は、というよりも童心あふれる歌詞は、そうした状況から生まるのだ。

 群馬の醸造業・近江屋で丁稚をしながら、夜中、布団の中に電球を持ち込んで鉛筆で書きつけた詩や、徴兵され、遠く韓国のススキ野原で故郷を思って書いた歌はこうした気持ちから生まれたものだ。

「故郷にいては、故郷を思う詩(うた)は書けないのか」

 そう呻吟することもあった。しかし、そんなことはない。群馬で、横堀先生夫妻は立派にふるさとを思う詩を作っていたではないか。そして、自分は悩みながらもこの近江でその形をモデルに後進を育てようと決めた。そうすることが、歌い継ぎ、読み継がれる詩をつくり、ふるさとを思う気持ちを絶やさなくなることにつながると考えたのだ。仕事や家庭の事情など、やらない理由はいくらでも挙げられる。しかし、自分が故郷で仕事を探したのは、この地でふるさとを思う詩をつくり、地元に根を張って、後に続くような人々を育てると誓ったからではなかったか。

 それからさらに時間はかかったが、昭和三四年三月、葉もれ陽(び)詩謡社を創立した。近在の歌仲間二人を誘って三人での船出だった。刊行する同人誌の名前はもちろん『葉もれ陽』。B6判で八頁の小さなものだった。

 木の間からこぼれる葉もれ陽のように、ひっそりと、あたたかく人の心に夢と喜びをおとしていきたい――それが創刊のコンセプトだった。

 『葉もれ陽』は、全国から愛好者が集まり、徐々にではあるもののその規模を拡大していった。刊行は不定期になりがちだったが、仕事から帰って書斎にこもると、そこはもう詩作の場だった。赤ペンで、全国の同人から寄せられる詩にコメントを入れたり、出来上がった同人誌を封筒に入れ、宛名を書くなどの作業もこなした。そして、はがきに作品への評や想いをしたため、時には電話で思いのたけを伝えた。こうして皆の心を揺さぶることが、何より詩作の励みになることを身をもって知っていたからだ。もちろん、仕事との二足のわらじは大きな負担がかかる。しかし、こうした疲労から自分の作品が書けないことがあっても、『葉もれ陽』は刊行し続けた。

 時には、京都から関沢が訪ねて近況や詩作についての意見を交わすこともあった。関沢は復員してからしばらく体を壊していたが、療養の後、当時は日本の映画界をけん引していた京都・太秦に映画製作に携わる職を見つけた。ここで演出や宣伝の仕事をするとともに、映画関係の雑誌で編集を任されたり、パンフレットなどの媒体にイラストを描いたりしていた。そのうちに、映画の脚本も手掛けるようになった。

 あるとき、一番下の娘が、目を輝かせて、今学校で皆が夢中になっている怪獣映画『モスラ』について語ってくれたことがあった。テレビでの人気者フランキー堺や子供たちまで魅了していた歌手、ザ・ピーナッツが小美人として出ていること。まだ見てもいないのに、随分な熱の入りようだ。ひとしきり聞いたのちに、

「あの映画を書いたのは、この間うちに来ていた関のおっちゃんなんやで」
と伝えると、目を丸くして驚いていた。

(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                            〈続く〉

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