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炎城(えんじょう)3

 ふたたび、天正十年坂本城。

 腹を切るための刀の手入れをしていて、ふと言葉が口をついた。

「結局、拙者は光秀様お支えできていたのか……」

 意味を改めてかみしめ、もう一度強く思った。自身では、光秀様の右腕のような気でいたものの、その実、そうではなかったのかもしれない。娘の鈴様と夫婦(みょうと)になり、晴れて義理の息子となったのちも、光秀様の拙者に対する距離は大きくは変わらなかったように思う。もちろん、他の四人の家臣と共に重用していただいてはいたし、その中でも特に目をかけていただいていたのだとは胸を張っていえる。

 しかし、結局家臣は離散し、光秀様の居城にも火をかけなければならない状況へと追い込まれつつある。

 ふと、腰に差した無銘の宝刀が左手の肘に当たった。この刀をここで賜った折のことを思い出した。

〈無銘刀〉

「左馬之助、娘を妻にもらってやってくれぬか」

 坂本城天主にある殿の居室に呼び出された。そして、この名で呼ぶときは、必ず何か頼みがあるときだ。時は天正六年(一五七八)五月の宵。
殿の子女は全員嫁いでいるはずだが、と内心思ったのが顔に出たのか、
「実は、荒木村重の息子、村次のところにやっていた娘の鈴が戻ってきておってな。お主にもらってやってほしいのじゃ」

「もちろん、謹んでお受けいたします」と平伏しながら答えた。殿の声が少し和らいだ。安心したのだろうか。長くお仕えしている拙者などに気を使われなくともよいのに、とも思う。

「面(おもて)を上げよ。まずは、これを受け取ってくれ。わしが何より大事にしておった名品じゃ。元より遠縁ではあるが、これで晴れて近しき一族になるのじゃ」

渡されたのは、脇差だった。両手で押し戴く。長さは約一尺八寸(五四・五センチ)鞘に美しい龍の螺鈿細工が施されていた。

「銘はない。いや、なくなったというべきか。打ち潰してあるが、おそらくは江州、長曾根虎徹じゃ。朝倉家に伝わったもので、俱利伽羅・吉広江と呼ばれておる。その鞘と対を成す龍が刀身にも彫られておる。ここでは抜かず、守り刀とせよ。そして、今日より明智の姓を名乗れ」

「ありがたき、幸せにございます」

 五年前に完成したこの城は、珍しい湖畔の城だった。小さな船であれば、直接城の裏手につけることもでき、大殿も一昨年完成した淡海(あわうみ)の対岸、安土城から何度もおいでになっている。

「しからば、落ち着き次第祝言ということになるが、出戻りということもあり大仰な宴はしつらえられん。この坂本で、つつましやかなものを考えておる」

 礼を述べ、頭を上げた目に、窓の形に切り取られた景色が目に入ってきた。いくつも立てられた櫓の中、ひときわ高くそびえる天主からの、暮れゆく春の湖(うみ)の夕暮れだった。

 元亀二年(一五七一)九月に、当時、坂本を見下ろす位置にあった宇佐山城を出て、湖岸に築城を命じたのは大殿だった。あれから七年近くがたち、城としての形は整い、滋賀郡ひいては、近江西部の中核をなしつつある。しかし殿は城だけではなく、石積みを用いた町普請にまでその考えを広げつつあった。

 そうなると人手が足りない。領内の整備に加えて、大殿・信長様からの軍道の普請や各地に整えつつある城など、その重臣たる殿が抱える要件は膨大で、なかなかこうした足元の領国統治に割ける人足は少なかった。加えて坂本だけではなく、丹波の統治も任されていた。福知山城主として拙者を任命してはいるものの、実質は京を挟んで丹波・近江は光秀様の分国統治となっていた。

 目指す目標と、手段に乖離があり、殿の右腕たる五人の家臣、拙者、明智光忠、藤田伝五、斎藤内蔵助俊三、溝尾庄左衛門茂朝で知恵を絞ってもなかなかいい案は浮かばなかった。ここで、殿の機知がさえた。すなわち、丹波の領民の手が空けば坂本へ、坂本の領民の農閑期には丹波の普請へと借り出したのだ。また、途中の京都を通る際、他の武将へ迷惑が掛からぬよう細かい規則を「家中軍法」に定めた。

 これで、一気に坂本及び丹波の城下が開けることとなった。
こうしたここ数年の町普請に思いを巡らせていると、こちらの目をまっすぐに見て殿が言う。

「また戦じゃ、次は荒木村重じゃな。今まで通り助(す)けてくれい」

「拙者などに頭をお下げくださいますな。もったいないお言葉。この身を粉にしてもお支え申しあげます」

「我が娘と結婚するのじゃから、もう息子も同然じゃな。これからも頼む」
目尻に少し涙が出たのだが、殿は気づかれただろうか。この幸せな日々が少しでも長く続くよう、粉骨砕身仕えよう。その気持ちを新たにして、いただいたばかりの脇差の柄を強く握りしめた。


 全ての準備が整った。

 介錯人はいないが、腹を切れば、その後、坂本城と共に灰になる。
「それにしても……」とこの城を焼かねばならぬようになった理由を考える。岐路は、今よりわずか一五日前の五月末日、

 本能寺投宿中の大殿を討つ。

と殿から聞かされたことだろう。亀山城の殿の居室でのことであった。一言ずつその言葉を告げる光秀様の口の動き、声の高さなどをはっきりと覚えている。

 人がいなくなった坂本城で、殿の大事にされていた品々を整理しながら思い出した。

 大殿・織田信長様旗下の武将の中で、惟任日向守光秀様の家臣団はかなり重要な位置を占めていたように思う。大殿と光秀様の間に信頼関係があり、徳川家康殿の供応役を降ろされはしたものの、それを中断して中国の秀吉様の援軍を出すということを聞かされていた。

 いつも、大きな戦役の前には拙者を含む重臣が集められ、戦略を練るが、その日は少し早く来たがゆえに、「大殿を討つ」意を告げられたのだ。

「殿が、信長様の比叡山焼き討ちをお諫めされたように、拙者も殿の信長様への逆心を何とかお諫め申し上げたいと思います」

 間髪を入れず、翻意を勧めたが、聞き届けられなかった。

「明晩。これを逃すともはや誰も止められぬ」

「理由をお聞かせください」

「すべてを語って聞かせる時間はない。じゃが、ずっと以前より考えていたことなのじゃ。それには、明日という機を逃すわけにはまいらん」

「それにしても……」

「佐馬之助! わしの言でも聞けぬか」

 襖が開いて、明智光忠ら四人が入ってきた。

 年長の藤田が「どうなされたのですか。殿らしくもない」と聞く。

 「今日の軍議は、秀満抜きで行う。四人はよく聞け」

 わずかそれから半月の間に、本能寺での大殿の殺害、二条御所で信忠様を自刃に追い込む、安土城の焼き討ち、細川忠興様や筒井順慶への参陣などの調略。そして何より、大山崎での豊臣秀吉との合戦。

 結局、敗戦し、拙者はわずかな手勢を連れて殿の居城、坂本城へと帰参した。もちろん、城を焼き果たすためだ。これは、山崎の折に、万一のことがあった場合を想定して殿から伝えられていたことだ。その前に入っていた安土城から瀬田の唐橋を渡り坂本城へ入りたかったが、湖の南は豊臣方の武将・堀秀政に押さえられているとのことが伝えられていたため、得手ではない船で湖を渡り、入城した。

 この城に籠って後二刻ほどして、瀬田の唐橋を中心に軍を展開していた堀秀政が北上し、湖岸のこの城が包囲された。間一髪で城にいた小姓たちには金子を与えて逃げさせた後だった。

(滋賀県文学際に投稿したものを改変)

                         〈続く〉


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