フロッピーディスク

~Time goes by~ 希望に満ちあふれたあの時の起業(#エッセイ)

SMAPで活躍中の森君が卒業し、オートレーサーへ転身して活躍しているとのニュースがラジオから聞こえた。
Every Little Thingの曲『Time goes by』が流れる。
ぼくは借りたばかりのアパートのワンルームで事務処理をしていた。
転職してわずか3か月の翻訳会社が倒産し、営業の上司と後処理を経験したのち、ぼくは三十歳代前半でたった一人の翻訳会社を起業した。

ぼくは電卓で事務処理を終えた。
隣にはきょうだけ臨時に校正を手伝ってもらうことになった片野さんが座っている。
片野さんはぼくより七・八歳年上の男性で、倒産した会社のチェッカーとして働いていた頼れる先輩だ。ぼくの起業にも賛同してくれて、いつでもサポートしてやると言ってくれた。

ネイティブ翻訳者が仕上げてくれた日英翻訳データをチェックし終えた片野さんは、別の机に置いてある家庭用プリンターにコピー用紙をセットして、印刷のスタートボタンを押した。

カタカタ カタカタ ツー カタカタカタカタ

FAX機能を兼ねそろえた業務用プリンターをリースするまで片野さんの自前の家庭用プリンターを貸してもらっていた。
ぼくは別の英日案件の翻訳データを最終チェックし終え、赤入れ原稿とフロッピーディスクを片野さんに渡して確認してもらった。片野さんがこちらを向いた。
「ちょっといい? これ、『ぎょうしゃ』っていう言葉なんだけどね。あなたは翻訳データの『業者』という文言を『業社』に赤入れしてますよね。こういう漢字はあるの?」
「えっ、『ぎょうしゃ』は会社のことを指しますよね。だから『業社』じゃないんですか」
辞書を開いて、片野さんが説明してくる。
「ほら、辞書にはないんですよ、『業者』としか。『仕事を営んでいる人』って書いてあるから人を指しているんじゃないの」
「本当だ。ぼくは今までてっきり『業社』だとばかり思い込んでいました。片野さんに確認してもらってよかった」
「誰にでも思い込みってあるんですよ。じつは私もね、ずっと『肉体疲労時』を子どもも疲れるんだなと『肉体疲労児』だと思い込んでいましたから」
「ハハハ、そうなんですか」
「うん。これ、あとは大丈夫だと思いますよ」
片野さんがワープロからフロッピーディスクを取り出した。ぼくは差し出された赤入れ原稿とともにそれを受け取った。
「片野さん、ありがとうございます。では、赤入れを一太郎で取り込みますね」
「よろしく。あっ、そうそう、パソコンも買うんでしょ?」
「はい、そのつもりです。Windowsって新しいOSが登場しましたからね。表計算もコンピュータが自動で計算してくれるんですよ! 電卓も要らなくなるんです!」
「うん、知っているよ。あのWindowsってヤツはすごいらしいね。作業しているウインドウが同時にいくつも開けるらしいから、便利になるよね。あと、MS-DOS版の一太郎だと英文が印字されるとき、右端の単語が途中でぶつ切りになって残りが次行に送り込まれるので読みにくかったでしょ。あれが、Windowsのパソコンになると、MS-Wordってソフトが入っていて、右ジャスティファイ機能が自動で働いているから、印字したとき右端は必ず1単語まるまる残るらしいよ」
「へー、” environmental”なんて長い単語でも?」
「うん。右端に入り切れないときは、単語ごと自動的に次の行の最初に送り込まれるみたい」
「わー、それはいい!」
「うん。あと今、パソコン通信でデータをやり取りしているけど、もうすぐインターネットっていうものが広まるらしいね。そうなったら電子メールで大量のデータが瞬時にやり取りできるようになるみたい」
「世界中の翻訳者とつながれるかもしれないですね。なんか、やる気が出てきました!」
ピーピーピー!
プリンターが鳴った。プリンターのフィーダーには用紙がなくなっていた。片野さんがセットしに行き、印刷された用紙を持ってきた。
「5枚印刷できたけど、5分強かかってるね。10枚で10分としてもこの英訳マニュアルは320枚あるから、5時間以上かかる計算だね」
「はい。とすると明日の納品に正副2部持っていくので10時間!?」
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です。もう徹夜するの慣れましたから」
「でも、あなたはよく一人で起業しましたね。その勇気、感心しますよ」
「まあ、なるようになるさ、って感じです。ほら、PHSができたでしょ。分厚くて小型の移動体通信器。アンテナ立てて。あれができたので、一人で起業できると思ったんですよ。得意先が電話してきたとき事務所を留守にしていても、PHSにかけてもらえれば外回りの営業中でも通話できますからね。
それに、明日納品する企業の部長さんも『この業界、仕事あるからって大きくするとやがて倒産するから、小さいまま長い経営を目指しなさい』って応援してくれたんです。起業したばかりのこの会社に案件を依頼してくれるんですから。気合入りますよ。元SMAPの森君だって一人でがんばってますしね」

カタカタ カタ カタ ツー カタカタ カタカタ ツー
家庭用プリンターのフィーダーに乗っている10枚目の用紙が一段一段下がっていくのが見えた。

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