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【三国志を語りたい】皇甫嵩と董卓

物語には対となる存在があることでより深みが出てきます。

例えば、志をかけてぶつかり合う、曹操と劉備
知略の火花を散らす、諸葛亮と司馬懿、
遊撃戦を展開しあう、張遼と甘寧

このようなライバル関係は読んでいて楽しくなりますし、どの物語にもなくてはならないものでしょう。

では、三国志序盤にこの関係はあるのか?
あります!

それが皇甫嵩と董卓です。
本当に宮城谷三国志の二項対立の構成は見る人を熱くしますね。
皇甫嵩は白の英雄であれば、董卓は黒の梟雄なんです。

この2人は信念も使命も全く違う、相容れないが故に対となっていく様を今回は記載したいと思います。

前回記事では皇甫嵩の有能ぶりを紹介させていただきました。


では、董卓はどうだったかというと、能力的には並と言えると思いますが、皇甫嵩には遥か及ばないといった感じでしょうか。


2人にまつわるエピソードがあります。

1つ目は黄巾族との戦いにて、董卓は一軍を任され、黄巾の居城を攻略していましたが、苦戦を強いられます。(宮城谷三国志では黄巾を殲滅するのは董卓にとっては面白くない、ということでわざと攻撃を緩めているみたいでした。)

そんな中でも皇甫嵩は各地で連戦連勝を収めており、とうとう霊帝は董卓を罷免して、皇甫嵩にその地域の黄巾殲滅を命じます。

董卓にとっては屈辱ですよね。。。

その後、皇甫嵩は状況を把握して、突貫して攻め抜くしかないと決め、夜から攻撃を始め、長時間の戦闘で城を落とし、敵将張梁を撃破、すでに病死した張角の墓を暴くことに成功します。

ほぼほぼ黄巾を1人で倒したと言っても過言ではない、皇甫嵩の活躍に皆賞賛したことでしょう。


もう1つのエピソードは西方部族との戦いです。
この時西方では韓遂や王国といった王朝に反抗する勢力がたびたび中華へ侵攻してきました。


董卓は西涼の官として西方部族に睨みを効かしていましたが、王国が大軍を率いて侵攻してきたため、中央に援軍を求めます。
その援軍の将は勿論皇甫嵩です。

2人は軍議でぶつかります。
王国の兵が陳倉に向かって侵攻しているとのことでしたので、董卓は真っ先に駆けつけて救援すべきと意見します。
しかし、皇甫嵩は兵法では神域に達しているため、董卓の意見を退けます。
陳倉は難攻不落で王国の兵は必ず苦戦して、撤退する、その時を叩くと。

後になってわかることですが、陳倉はあの諸葛亮でも攻めあぐねた名城です。
この時から皇甫嵩はこの城の強さを抑えていたみたいですね。

事実、王国は陳倉を攻めあぐねて、撤退します。

皇甫嵩は徹底的に追撃を命じますが、董卓は意見します。
退却する兵に苛烈な追撃はまずいと。
これも確かにそうで、追撃して罠にハマって命を落とす将は今後数多く出てきます。

しかし、皇甫嵩はまたもや一蹴。

敵は疲れて退却するため、その兵法は当てはまらないと。

つまり、疲れている兵は戦う、策を弄する気力もないため、徹底的に討つべきということです。

この作戦もまたもや皇甫嵩に軍配が上がります。
王国はこの敗北で西方部族の中での権力も衰え、しばらく反乱勢力の力は弱まるに至りました。

が、董卓の嫉妬心は増大したことでしょう。
「お前は兵法を知らないのか?」
と言われているようなもので、2人の仲は急速に悪くなります。



このエピソード2つから見ても皇甫嵩と董卓の力量の差は明らかであります。

しかし、私たちが知っている歴史には皇甫嵩は出てこず、董卓が表舞台で君臨します。
この2人に一体何があったのか?
何が違ったが故に董卓が歴史に名刻むようなったのか?

次回、ご期待ください。

なぜ、こんなに面白いのか?読めばわかる。

三国志
宮城谷昌光
文集文庫




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