私は未だ見たことがない
本当にどうでもいい話であれば、私の内からどんどんと溢れるように出てくる。
どなたか蛇口をひねって、吹き出す言葉を止めてほしいくらいだ。実際はチョロチョロ出てるくらいなのだが。
私が機械になったとするならば、ドリンクディスペンサーになりたい。そう、ファミレスに置いてあるあれ。
スイッチ一つで多種類の飲み物を流し出すのは大変魅力だ。
私がドリンクディスペンサーだったら、私という「機械」から出てくるのは飲み物ではなく読み物。
誰かが何か読みたいと思ったとき、読みたいジャンルのスイッチを押せば読みたいと思った物が私の口から出てくる。それは気持ち悪いので、私という機械はペンを走らせる。
するとスイッチを押したその人は自分の読みたいもの、まさにその人が探し求めていた読み物が誕生する。なんと素敵な機械だ。
ただ奇しくも私は人間なので、機械のようにうまい具合にはいかない。
noteという大海から小さな小さな私のnoteを見つけなければいけない。
見たいものは実際に見るまでの期間が長ければ長いほど、見ることができたときの喜びは大きい。
ネットで探してもなく、書店で探し回ってやっと見つけたあの本の名はおそらく一生忘れない。
探し回るほどでもないが私には未だ見ていないものがある。
そう、それは電車で化粧をする女性あるいは男性。
私にとって未確認の、新種の生き物である。かれこれ、その種が発見されてから幾ばくの時を経たろうか。
私はその生き物を見てみたい。生き物という呼び方が失礼であれば、その女性あるいは男性を見てみたい。
見たからといって私にどのようなメリットがあるかと言われると、もちろんない。見たからといってなんの感情も沸かないであろうことは想像に難くないし、見たというそれだけの小さな小さな出来事である。
ただどうしても見たいという感情はどこからともなく湧いてくる。
他人が見たものを見たい。いわゆるヤジ馬根性である。近くに救急車が来たから窓から顔を出すあれ。あれがしたい。
もちろん私は近くに救急車が止まったからといっても窓から顔を出さない。だが電車内で高校生が「あの人化粧してる」とこそこそ言い合っていたら、私は席を立ってでも見にいく。
ただ見たいという欲を満たすためだけに人の波をかきわけるだろう。人は自分の欲望には純粋である。
ただあと少しで見られるという状況に未だ一回も出くわしたことがない。珍しい物を見たいとき、なかなか見ることができない。見ることができる人と私との間に一体どんな差があるというのだろう。
熱意だろうか。私は電車に乗るたびに毎度端から端まで車内を濶歩すればいいのか。ただの阿保だ。そんなことをしている時間があれば読書でもする。
ただ見たいという気持ちが薄いのは確かかもしれない。流星群の日に限って夜早く眠ったり、日蝕の日に限って空を見上げなかったりする。
要するにどちらでも構わないのだ。簡単に見られるときもあれば、なかなか見られないときもある。
偶然を楽しむのもまた一興である。
そんなある日、電車に乗ると化粧をしている人を見た。
うん、案の定その化粧をする人とその化粧をする行為に対して何の感情も湧かなかった。
ただ見たいものを見ることができたというちょっぴりの満足と、また一つ未見がへったという寂しさが残った。
ただ未知の生物はまだこの世にたくさんある。
探すのではなく、またふとあらわれる偶然を楽しむことにする。
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