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『ぼくたちの哲学教室』を見て、もっと言葉にしようと思った話

こんにちは。6月にこんな記事を書いておきながら、結局noteを更新できていない私です。

代わりにといってはなんですが、Stand.FM(スタエフ)の音声配信は週4,5回ペースで更新しています。

結局のところ、私の目的は「書くこと」ではなく、「アウトプットすること」なので、スタエフで話したら満足してしまうんですね、、。

そんななか、本日は映画サービスデー。
朝から鑑賞した映画『ぼくたちの哲学教室』に啓発されて、ひさしぶりに書く気になりました。

映画の内容については、公式サイトを参照されたい。

「考える」ことの大切さ

突然ですが、「考える」ってなんでしょうか?

映画では、校長先生が生徒たちに何度も問いを投げかけます。

  • 怒りを人にぶつけてもいいと思うか?

  • 友だちとは何か?

  • I'm sorryとはどういうことなのか?

  • なぜ喧嘩してはいけないのか。

  • 「何も考えない」ということは可能だと思うか?

  • 親や大人から言われたことを、そのまま鵜呑みにして良いのか。

生徒たちの答えに正解不正解はつけず、校長先生はただ子どもたちそれぞれの意見に耳を傾けます。

ですが、やはり学校には規則はあります。

生徒同士で喧嘩をしたら居残りをさせて内省させ、人を殴ったら停学処分にさせられる。小さなことでも何か問題が起きていたら、先生が注意をし、何が起きているかを生徒自身に考えさせる機会を与える。

映画を見ながら、ふと最近の自分自身の挙動を振り返っていました。ちょっと気まずい。子どもたちの手本になる行動なんて、全然できていない気がするぞ、、。

実社会に出たら、校長先生のような絶対的な司令塔はおらず、誰もが自分の頭で考えなくてはならなくなります。法を犯さない限り間違いを正してくれる罰則もなく、愛を持って指導してくれる第三者が誰にでもいるとは限りません。

人は無自覚でも、どこかに暴力性を孕んでいる生き物なのだろうと思います。それは、自分や大切な何かを守るために必要なものでもあるかもしれません。けれど、人を深く傷つけたり、他者に暴力をふるう可能性とも実は常に隣り合わせなのだということ。

だからこそ、人間として「考える」という行為はやはりとても大事なのだと、鑑賞後そんなことを考えていました。

子どもたちの可能性、平和な未来を描く力

では再度、「考える」とは何なのでしょうか。

映画を見て、子どもたちの返答に驚かされることがありました。

「考える」とは、自分の気持ちや考えを言葉にすること、それを目の前にいる人に話してみることなのだと感じます。

初めはうまくできなくても、それが本当に自分の言葉になるまで、相手に伝わるまで、何度もトライする経験を通して、人は自分の頭で考えることができるようになっていくのだろうと思います。

言葉にできない感情、やり場のない悲しみや怒り。そういうものを抱えたとき、人は暴力的になります。そのエネルギーを考える力に変え、言葉というツールを使いこなし、相手とのコミュニケーションを諦めずに平和や愛へ導くことができる人が社会には必要なのだろう、とも。

映画の中で、校長先生がトレーニングをするシーンが何度か出てきます。

スポーツの世界では、心技体のバランスが整ったときに最高のパフォーマンスができるといいます。
体を鍛えるよりも、技を磨くよりも、心を鍛えることは何より難しい。本当に難しい。けれどそれは人として、とても崇高な部分なのだと思います。

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