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お三の人柱伝説

「ねえ、なんであの神社ってお三の宮っていうの?」
 日枝神社を参った後、関内に向かってゆっくり歩きながら冬子は丸尾に尋ねる。
 付き合いはじめたばかりの丸尾は横浜の出身なので、市内に詳しい。
 地方出身の冬子は神社巡りが趣味なので、デートでは丸尾に市内の神社を案内してもらうことが多かった。
「昔むかし、お三って女の人がいたんだ。恋人を殺されて、その仇討ちをしたくてさまよっているときに横浜の大金持ちの勘兵衛さんと出会った。勘兵衛さんの手助けもあって、お三は仇討ちを果たすんだよ」
「へえ。女の人が仇討ち。すごいね」
「そうだね、勇ましいよね」
 隣で微笑む丸尾を見て、私も丸ちゃんが殺されたらやるわと思う。丸尾が再び口を開く。
「勘兵衛さんは横浜の土地を作った人なんだ、埋め立てで。このあたりもそうなんじゃないかな?」
「すごいね」
「そう、すごいことなんだよ。でも、なかなか工事がうまくいかなかったらしい。水に流されたりして」
「そりゃそうだよね。今みたいな機械も技術力ないし」
 リケジョの冬子が深く頷く。
「それで、お三が人柱を買って出たんだ」
「人柱?」
「生贄だね。人柱を差し出して、神様にお願いしたら、工事がうまくいくって信じてたんだよ」
「愚かだね」
「だね」
「お三、かわいそう・・・」
「でも、そうでもないかもしれない」
「え?」
「仇討ちを果たして、勘兵衛さんに恩を返して、恋人のもとに旅立ったんだから。少しは幸せな気分もあったんじゃないかな?」
 そうかもしれないけど・・・
 冬子は反論したい気持ちを抑える。そんなふうに考えることができる丸尾が好きだと思って、笑顔を作る。
「丸ちゃんったら、ロマンティックぅ」
 冬子は体を弾ませ、隣の丸尾に肩をぶつけた。

 その夜、冬子は不思議な夢を見た。
 冬子は群衆の中で、暗い海を見ていた。浜では冷たい風が舞って、何度も人々の着物の裾をめくりあげようとする。
「なに、これ?」
 皆の視線の先には、白装束の女の人が立っていた。女は十字に張り付けられ、水の上に立っている。
 人々が盛んに口にしている「お三」というのは、女の名前のようだ。
「お三?」
 昼間に訪れた日枝神社を思い出しながら、冬子はお三と呼ばれる女を凝視した。

 冷たい。
 潮が満ちてくる。お三の足首は水に浸かり、白い着物の裾が水を含みはじめている。
 針で刺すような海水の冷たさがお三の神経を尖らせる。目の前に広がるのは夜明け前の、茫々たる大海だった。
 これを埋め立てるために、自分は人柱になったのだ。
 そのことに後悔はない。恩人である勘兵衛の力になり、命をなくすなら本望だ。それに、お三はもうこの世に未練はなかった。というか、生きていく目的がない。
 恋人を喪い、その仇を討ったいま、家族もいないお三を生かすものは何もなかった。
 昇り始めた太陽が、さっきまで真っ黒だった海をみかん色に染める。きれいだと思った。その明るさに目を細めるお三の腰のあたりにまで、もう水がきていた。
 あっという間だった。
 こんなふうに潮の流れが早いから、このあたり一帯は埋め立てても埋め立ててもすぐに流されるのだ。
「神さんなんかのせいじゃねえ。このあたりの水の流れのせいだ。おまえが人柱なんかになってもなんにもなんねえ。頼む、お三。そげに無茶なことやめてくれ」
 勘兵衛に強く説得されたが、お三の決意は固かった。普段は人の言うことをよく聞く自分だが、こうと決めたらひかない頑固なところがある。
 死んだ恋人も自分のそんな性分を持て余し、よく苦笑いしていた。
 勘兵衛は最後は涙まで流してくれた。
 勘兵衛は大金持ちなのに、人並みの、いやそれ以上の優しさを失っていない人間だった。
 勘兵衛と出会えたことは本当に幸運だったと思う。
 強い風に包まれたと思ったそのとき、何かにふわりと包まれた。その感触は優しくも、力強かった。覚えのある感触だと思い、お三ははっとする。
「お三」
 耳元で懐かしい声がした。お三は小さく息をのみ、目をつむった。そして、怖々とゆっくり目を開く。目の前には喪った恋人の懐かしい顔があった。
「勘兵衛さん」 
 仇討ちを手伝ってくれた勘兵衛は、亡き恋人と同じ名前だった。お三は運命的なものを感じ、勘兵衛に頼ったのだった。
 すっかり水を含んで冷たくなった着物を絞りあげるように、勘兵衛が強くお三を抱く。勘兵衛の体が火のように熱いのは、自分の体が冷え切っているせいだろうか。
「ああ、やっと一緒になれる」
 波のたてる激しい水音の間に、お三は勘兵衛の声を聞く。
 私もうれしいよ、勘兵衛さん。
 お三は目をつむり、意識を失っていく。眠るように水に覆われながら、勘兵衛の温もりを感じ続けているお三の顔は柔らかくほどけていった。

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