見出し画像

「話し言葉」と「書き言葉」

「話し言葉」と「書き言葉」


 この表題も良く考えると大変難しい問題を孕んでいる。

 最も、簡単な言葉・概念というものはひとつもないといってもいい。

 我々が普段に何気なく使用する言葉ですら深く考察すれば根本的問い、根源的なる地点へと至るからだ。

 まず、我々が言葉・言語を用いるということには最前提として「他者への交流伝達」がある。

 仮に(この仮にというのもあまり意味をなさないが)、我々が世界にただ独りしか存在していない場合は言葉など不用であろう。

 ゆえに、話し言葉であれ、書き言葉であれ、ここには常に他者が存在する。自明のことだが「私」以外は全て「他者」である。逆に「他者」から見れば「私」は常に「他者」でもある。

 伝達手段としての「言語表現」である、話すことと書くこと。この基本となるものは前提としての「共通基盤」であろう。われわれの生存・存在の基盤でもある一切の環境、状況が「共通基盤」となる。これらの全てをわれわれが思考を用いて「言葉」にする。無論、あらゆる諸行為も思考を通して考察判断された言葉が前提としてある。自明だが、行為と意志は不可分である。

 話し言葉にせよ、書き言葉にせよ、何をおいてもこの一点を踏まえねば他者との交流は遮断される。ゆえに日々のなかでの、常に絶えざる自己考察は欠かせることは出来ない。

 話すことと書くことに優劣などない。あるとすれば個々人の「表現」の練磨があるくらいのものである。

 自分自身が知覚し感受したものを常に言葉に翻訳する。これは自己保存本能と即興的精神が連動している。個々人の自覚に準じて表現は多様に変化する。

 よく「立て板に水」の如く喋る者がいる。だが、内容はといえば他者の文献学的引用であったとしたら、直に書物を読んだほうが良い、ということになる。

 無論、的確に簡潔に語れるにこしたことはない。だが、語るべき内容によっては「沈黙」していた方が良い場合もあり得る。これは書くことにおいてもそうである。だからといって「言語表現」に対する努力の放棄では困るのである。

 自己を語るとは「他者」を語ることでもある。他人は自己を映す、といわれる所以でもある。誤解や無理解を恐れていては「自己練磨」は不可能である。どれほど苦しくとも常に自己との戦い・内的戦いの一言に尽きる。

 この「表題」である問いは「自己認識」の問いでもある。結局は各自の精進しかない。

                                   

 自己認識というものが如何に大変であるか、は考察すればするほど痛感するであろう。

 だが、この自己認識という「核・マグマ」こそが原点でもあり生きる「熱」でもあり、大いなる「私」へと至るわれわれの人生なのである。

#エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?