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「建築現場での仕事」(自叙伝より抜粋)

「建築現場での仕事」(自叙伝より抜粋)

*兄が精神のバランスを崩して入院した直後、、。(17歳から20歳の頃)
画像は18歳の時の自画像。

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 私は、自分の無力さと呵責もあり、友人が働いていた建築現場の仕事を始めた。現場は、渋谷駅前にある三菱銀行であった。仕事は土工から解体、鳶の仕事を含む何でもありの内容であったが、毎日夜の十一時過ぎまで働いた。仕事の世話役の人物は人使いが荒く、人の扱い方を心得ていた。かつて人を殺して刑務所に行ったと誰かに聞いた。丸刈りのかなり迫力ある人物であった。

 私達は、正に馬車馬のごとくこき使われた。二日間の徹夜もざらだった。ある有名な大学の運動部のごつい男も昼飯の時にとんずらした位の苛酷な仕事だった。さすがの私も仕事から帰宅して七日位はそのまま倒れるように眠りに落ちた。それでも私はたいして苦に思わなかった。

 兄の事を考えると、むしろこの程度で、と思った。仕事に慣れてくると私は進んできつい仕事を望んだ。半年も経つとと私の体力は頑強になった。当時のセメント袋は五十キロあったが、私はそれを肩に担いで階段を二段づつ駆け上がったり、皆の肩に乗せて自分の分は自分で担いだ。休み時間も身体を鍛えた。私の本当の仕事は帰って絵を描く事である。皆と体力が同じでは疲れて絵も描けない。その内に百キロを担いで階段を上がれるようになった。
 一年も経つと私より力の強い人間は同じ現場にはいなかった。解体や足場組などで生傷は常に絶えなかった。
私達は世話役の事をオヤジさんと呼んだ。オヤジの故郷の熊本から手がつけられない不良達が呼ばれていた。当時の建築現場の連中は皆気が荒かった。体力の無い者は使いっぱしりさせられた。建築現場の仕事はどちらが強いかで優先順位が決定する。どこの世界でも弱肉強食の原理が働く。

 当時の私達が仕事仲間で伊豆に旅行した時の写真を見るとどこかの暴力団の記念撮影に見えた。ただ、私だけがサンダルで、他の皆は白いズボンにサングラスといった風貌であった。ホテルの記帳には「弁護士協会」と書いていた。
私は少し飲んでいた酒も自分に禁じた。仲間と酒に付き合うと喧嘩はもとより、居酒屋からキャバレー、その後は女である。まともに付きあっていたら五日と金は持たない。給料は当時の普通のサラリーマンの二倍以上はもらっていた。また、それだけの仕事はしていた。

 私はそのころ体力を付ける為もあって人の三倍は飯を食べていた。たまに付き合いで同僚と飲み屋に行くと私は刺し身やつまみをひたすら食う。コーラーなど十杯でも二十杯でも入る。私を連れて行くと金が掛かりすぎるのである。私の強さを知っているので誰も文句は言わない。ただ、喧嘩の時に役に立つ位である。

 渋谷にあるNHKの建築現場では私達が四人で相手が三十人相手の大立ち回りをやった。相手はボード屋の職人であった。些細な事で喧嘩になった。ボードを積んだ四トントラックの運転手が私達の仕事していた所に入ってきた。車には二人だったが相手のその態度も横柄だった。それで私がむかっとして「てめえ、ぶち殺されてえのか」と腰の工具ベルトに挿していた足場を組むときに使う鉄製の工具で脅したら相手は走って逃げた。その逃げる相手を少し追い掛けたらその仲間達が皆それぞれ手に鉄パイプを持って応援に来ていた。逃げたら逆に袋叩きに遭う。私は一人の男がふり降ろした鉄パイプを左腕でまともに受けた。素手で受けた私に相手は狼狽した。私に胸倉を掴まえられたら震えていた。私は相手を投げ倒し、鉄パイプを掴んで構えた。相手は凄まじい早さで這って逃げた。
 その光景を見たほとんどは戦意を喪失した。相手の中でまともに喧嘩をしたのは六人位である。私には二人が同時に向かってきた、二人の男の襟を掴まえてはぶん投げた。相手の殆どがこちらの敵ではなかった。見物人は大勢いて現場監督もいたが誰も止めには入らなかった。

 私達はその後、引き続き仕事はしたが、相手は三人か四人程入院したらしく賠償金の問題もあり、こちらも一応病院に行って診断書だけもらった。私の鉄パイプを受けた左腕は全治一週間と書かれた。
仕事が終わって自分の体を見たら全身のあちこちに痣があるのに気づいた、気が付かない内にパイプで殴られていたらしい。



*余談だが、私は生死にかかわるような状況下では時間がスローモーションのようになる。

 最初の時は小学6年の時、私の後ろに座っていた生徒がいきなり殴りかかってきた、その動きはスローモーションの動きに見えて、相手の腕を避けて胸ぐらを掴むと大人しくなった。私は何故、殴られようとしたのか理由は不明だった。
 これに似たような事は何度もある。
 仕事で4トン車に鉄パイプを高く積み上げた上で作業している時に仕事仲間がパイプを動かした、私はバランスを崩して後ろ向きに落ちた。高さは三メートル近くあった。地上すれすれまで来た時「腕一本位折れてもいい」と、縦の動きを横に変えればいいと瞬時に考えて片手を付き、三回転して立った。肘を打撲したが大したことはなかった。
 坂道を自転車で下っていた時は、左手に角材を持っていた。下りきった所は壁であったため、急ブレーキをかけた。右のブレーキは前車輪の為に私の肉体は空中に5メートルほど飛んだ。地面に落ちた時に左手に持っていた角材で自分のあばら骨に三か所皹が入った。誰かに言うと自転車に乗れなくなるので黙っていた。後日、レントゲンで引っ掛かり、私はこれは皹と言ったが医者は信用しなかった。
 足場を解体する時にも何度かぶら下がったが、片腕で掴まれば自分の肉体を持ち上げることが出来た。他人の作った足場は作る順序が違うためによくある事である。

 、、このような事は「自叙伝」には書いてはいない。
 

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