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祈りは焦ると呪いに変わる 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』

鷲田センセの本を、読むともなしに読む。
「祈り」に「焦り」が加わると、「呪い」になる。

こんなあたりを読んで、うひゃ!二村ヒトシ!と思って、ひさしぶりに本棚ゴゾゴソ。大学時代にさんざん布教しまくった『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(文庫ぎんが堂)。
ライトなタイトルで侮ることなかれ。人がどうやって自分を認識して、どうやって他人と関わって生きていくのか、その真髄の部分を射抜いてくれる本。あったあった、これこれ。

みんな「未来」という言葉に、縛られすぎているんじゃないでしょうか。未来というのは、そこで何が起こるかわからないから「未来」なのです。[…]「何歳までにこうしないといけない」[…]というのは、それは未来じゃなくて、予定か強迫観念です。(8-3 自分の「未来」を忘れてみる、p.159)

理想の未来を実現できないとき、ひとはへこんだり、自己受容ができなくなったりする。でも、計画した未来を実現することを頑張るのをすこし脇において、いま現在起きた出来事のなかに幸せだったり、新しい価値や意味を発見するほうが楽になるかもよ?というアドバイス。

そのためには、「計画していた未来や『こうありたい』自分の欲望にこだわら」ないということで、「ナルシシズムを弱める」(p.162)のがコツかもねと言うわけだ。

偶然起こったことを楽しむほうが、あなたが求めていたものよりも、もっといいものかもしれない。そうやって、自分の人生のハンドルをガチガチに握りしめてる腕をふわっとさすってくれる。

(まあ、その例え話として、風俗店で好みじゃないぽっちゃり女がでてきたときに、チェンジせずに楽しんだらそれ以来ぽっちゃり女が好きになった、っていう例をあげるあたりさすがAV監督ですけど)

えっと、なに書こうとしたんだっけ。そうそう、二村ヒトシさんのいう「強迫観念」って、別の言葉でいえば祈りが煮詰まった「呪い」なんだろうなという発見でした。ちゃんちゃん。

うめざわ

*鷲田センセの『「待つ」ということ』(角川選書)の該当部分、あんまりにも美しいので引用しておく。(14 閉鎖、p.131)

 宛先のない祈り、それを「だれか」の代わりに引き取る場所として、たとえばお宮やお社が護られてきたのだろう。時間の隙を見つけて何度も何度も通いつめるひと、じぶんで日を決めてその日にかならず訪れるひと、式日に習わしのようにやってくるひと……。明確な祈願を口にし、それを御神籤や絵馬に書きつけるひともいるだろうし、何を祈るでもなく、見ればただ掌を合わせに段を上るひともいるだろう。そのなかに、「《名宛人不明》の付箋」をつけたまま、「希い(ねがい)」を抑えに抑え込んでくりかえさせる「祈り」もある。

 「祈り」に何か明確な「希い」が込められているかぎり、「祈り」はしだいにつのり、思いつめたものになってゆく。時が過ぎ、その時の「効果」がいつまでも見えないうちに、祈りはしだいに焦りを帯びてきて、合わせる掌にも力がこもってくる。お宮に運ぶ足もより繁くなる。そしてあるとき、見切りをつける。「祈り」というかたちで収めようとしてきた焦りがじぶんにも隠せなくなる。そこ焦りをどこへと逸らすか、それが考えどころとなる。あるいはそこに、質が出る。
 そんな息せききった「祈り」は、往々にして、呪いと区別がつかなくなる。


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