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40歳、生き方迷子。経歴を振り返る。【ラスト】

どうも、うみです。
前回の投稿から時間が空いてしまいました。

今回は経歴を振り返るラスト回として、現在までの自分について書いていきます。
うっかり、長くなっちゃいました。

東京か、地元で田舎暮らしか

ホテルの人事職に就いてから2年経とうとした頃、転機が訪れます。
地元のハローワークから、1通の封書が届きました。

「代表が東京出張の予定があるので、面談しませんか」というもの。

ハローワークは、Uターン希望者と地元企業をつなぐ役割をしてくれていて、のちに転職することになるこの企業を紹介してくれました。

いつか地元に戻りたい願望があり、Uターン希望者登録をしていたのです。

正直なところ、これまで自分がやってきた仕事を活かせる仕事は地元にはないだろうと思っていましたが、求人内容を見て興味がわきます。
「総務人事」のお仕事でした。

東京は飽きないし好きでしたが、結婚するか、もしくはもっと仕事に振り切りバリキャリで年収アップでもしないと、東京では老後も住み続けられないかも、というイメージが根底にありました。

一方で、出張で全国を飛び回り各地の街並みを見ているうちに、今の自分なら田舎でもそれなりに楽しく暮らせるような気がしたこと、趣味の釣りと仕事とで生活のバランスが取れそうなことから、地方出身の自分には結局地方暮らしが合っているのかもと思い始めます。

都会の満員電車と移動時間にも疑問を強く感じ始めていた頃です。
まずは会ってみようと思い、面談を申し込みました。

北海道へUターンすることに決めた

面談した会社は北海道に本社があり、東京に支社がありました。

Uターンを考える上で、長いこと住んだ東京のことをバッサリ捨てきれない自分がいました。
ただ、北海道に居ながらにして東京とも繋がっていて、これまでの経験が活かせ、仕事とプライベートとでメリハリをつけて暮らせそうなこと、そして給与もそう変わらない好条件ということもあり、この会社に転職することを決めます。

製造業の会社でまたしても業界は変わりますが、自分のスキルは転用できそうだったので、あまり心配はありませんでした。

むしろ、これまで東京でやってきたのだから地方で出来ないことなどない、くらいの勢いだったと思います。
自信満々の凱旋転職だといわんばかり。調子に乗っていたような気がします。

天国に感じたUターン後の暮らし

引っ越しを終え、晴れて地元企業へ入社。
大人になってから改めて地元で暮らしてみて、思ったことがあります。

・時の流れがゆったりしている
・人がおっとりしている
・みな周りの目をあまり気にせず自由に行動している(良くも悪くも)
・朝と夜がちゃんとあり、人間らしい暮らしができる
・車移動が快適。道も広いし、空いている
・自分の仕事がバリバリ通じる
ということでした。

東京の暮らしで難点に感じていた部分と真逆で、「戻ってきて良かった」と思いました。

何せ道端にゲロが落ちていません。クリーンです。下を見て歩く必要がないし空が高い。綺麗。

地元は北海道でもド田舎ではなく適度に店もあり、ネットさえ繋がっていれば都会とそう変わらない暮らしぶりです。

Uターン直後に新型コロナウイルス感染症が流行りだし、テレワークなどウェブを使ったやりとりが当たり前になってきたので、なおさら地方暮らしの良さに拍車をかけました。

天職からの違和感

30人程度の中小企業ということもあってか、
一人一人が本職以外の兼務業務が多い会社でした。

私は人事と総務が本職でしたが、
総務とはどこまでの範囲を指すか微妙なところもあり、誰もやらない(やりたがらない)仕事も担当することは日常茶飯事でした。

東京から来たからにはと意気込んでいたこともあり、どんな仕事にも取り組んでいたと思います。

データ管理などアナログな部分が多かったので、クラウドツールを使ってペーパーレス化や情報の可視化にも取り組み、業務改善や社内コミュニケーションをバンバン行なっていました。
人事制度の構築にも取り組み(最終的には失敗に終わる)、社長が実現したかったことにチャレンジし、少しずつ実績は作れたと思います。

社長は2代目のワンマン社長。感情と思考の波が激しいこともあり、社員から嫌煙されていました。

私の直属の上司は社長。コーポレート業務の一環として、経営者(社長)と社員を繋ぎ企業を成長させていく役割が総務人事の私にはありました。

社員はみな社長と絡みたくありません。
間に入ってくれる奴が入社してきたぞということで、社員からそれなりの信頼を得られていたようです(辞めてからそう言ってもらえたので、そうだったと信じます)。

私にとっては、上司と目標(ゴール)は共有しながらも自分の裁量で物事を進められ、意見も言えたので、やりやすい環境でした。

ずっとやってきた採用の仕事も、ハローワークがいまだに地方では根強い特徴を活かし、
費用をかけずに応募者の内定受諾を勝ち取っていきます。
3年間で24名の採用を達成しました。

いま何か1つ、大きな違和感はなかったでしょうか。

「30名近くの会社が、3年間で24名の採用」

私が入社したときに30名で、そこから3年間で24名増えたので54名の会社になった。

のではありません。

入社した時も今も、従業員数はほぼ変わっていません。
3年かけて従業員がほぼ総入れ替えされてしまったということ。
離職者が多いのです。

けれども、社歴20年の社長の右腕とも言える工場長がおり、事業の収益のほとんどを担う商品を開発した人物がいるうちは大丈夫、と思っていました。

しかし、恐れていたことが起こります。その社歴20年社員が退職することになります。

退職に至るまでの経緯はずっと近くで見てきていましたが、私には社歴20年社員に非や頑張りどころがあるようには思えませんでした。

同時に、社長の考え・言動を見ていて、この会社でコーポレート業務(経営支援)を続けることに限界を感じます。

「これ以上大事な社員を切らないでくれ。育てようとする考えを持ってくれ」

社歴20年社員含め、離職者が口をそろえて言っていたのは、「仕事は本当に楽しい」「仲間にも恵まれていたと思う」ということで、「できることなら辞めたくない」
ということでした。

社長とやり取りが増えると皆会社を去っていきます。
人格否定、過去の失敗を蒸し返す、機嫌や売上が悪いと激昂する、皆の前で人を叱る、組織や会社の考えがコロコロ変わるという実情がありました。

どういうわけか、その社長の攻撃の的になる人・期間があって、皆それを「ターゲット」と呼び、次は自分の番なのではないかと怯えていました。

私は人事ということで、社長から直接ターゲットについての話を聞くことが日々ありました。
「悪口じゃないんだ」と言いながら口から出てくる数々の言葉は、悪口以外の何物でもありません。

話すうちに妄想も入ってきて、事実と違うことや行きすぎた話の時は、社員と言えどもさすがに訂正、反論しましたが全く効果なしです。

本人は悪気が無く自然であり、マネジメントの域を超えた考え・発言であることに、自覚がない状態に絶望ともいえる不信感を抱きます。

さらには社長の娘も入社してきて、甘い評価であったことも、自分がこの社長のもとで出来る仕事をもう見いだせなくなっていました。

退職しか思いつかない

社員の採用に携わる中で、私は応募者や新入社員の疑念を払拭する力がありませんでした。

「入社しなければ良かった」と思われたときに、そんなことはないと導く理由が見当たりません。

「組織づくりをしている時期なので(リーダーがいないんです)」という言葉で会社の現状を面接で伝えたこともありましたが、
応募者からしたらただの不安材料にしかならないですよね。

人事として現状について割り切って業務を全うするべきだったのかもしれませんが、自分が会社を信頼していない以上、良い仕事はできないという思いが強かったです。
そして自身も退職を決意します。

退職者ピーク期あたりからはもう、毎日ずっと社員の話を聞き、社長とも話し、調整し、を繰り返す日々で、事務業務などほとんどやっていなかった気がします。

苦ではなかったですが、どうにもできないことばかりで疲れました。

社長のためにも、社員のためにも、もっと何かできることがあったのではと思うこともありますが、入社時のように何か改善できることもないまま退職しました。

「人的資本」が叫ばれている今、この会社だけは時代に逆行していると感じました。

せっかく良い従業員がいて、最新設備の素晴らしい工場で良い商品を作り、全国に商品を展開しているというのに。

退職して今働いているのは、「好き」だけを優先して決めて入社した組織です。
ただし、契約社員として、1年間だけ働くつもりです。
出社しても誰とも喋らずに終わる日がほとんどですが、頭の中と時間にゆとりを持てているので、次の動きを考えたり副業をしたりしながら過ごしています。

次回は、クラウドワークスで動きがあったのでそれについて書いていきたいと思います。

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