日本近代文学研究と中国古典文学研究①

日本近代文学の研究と中国古典文学の研究は真逆と言っていいほど異なるものである。と私は思う。

まず前提として、人にもよるが日本近代文学の研究方法として「テクスト論」があり、これまで密接に結びついていた作者と切り離してテクストのみでの論を展開する。そこに同時代調査が加わったり、語り手としての作者ではない形で作者の調査を加えたり、様々な方法で強度を上げ論理的に展開される。私が大学で学んできた、特にゼミで学んできたのは「テクスト論」であり、「語り手が全てを語っている」ことを常に意識している。

私はどんな研究かと聞かれた時、簡単に一言で表すとしたら「一番面白い読み方をみつける」とこたえる。

そして、これはこれまでの国語教育で課されてきたたった一つの正解を見つけるものではない。この時の主人公の感情はどれか、この時の作者の意図はどれか、そういった考え方はむしろこの場ではアウトである。まず、主人公の定義はできない。誰が主人公で誰がサブなのか、決めることはできない。しかも、主人公を仮に決めてしまうことはストーリーの幅を狭めてしまう可能性が高くなる。次に行動と感情を結びつけるのは、論拠があればいくらでもできるから、一つに絞ることはできない。最後に、作者というのは作品中に「作者」として出てこない限り考えることはできない。よく語り手と作者を結びつける考え方があるが先に述べたように作者とは切り離して考える前提があるため、癒着となり論は成り立たない。

前置きが長くなったが、日本近代文学の研究方法はたったひとつの正しい答えを見つけるものとは逆行し、(論拠を持って)独自の読みを見つけていくものであると考える。


それに対して中国古典文学はどうか。
日本における中国古典文学の研究では、先人たちの「注釈」という知恵をヒントにしながら、先人たちと同じように「正しい読み」を追求する。そこに現代を生きる我々のオリジナリティは必要とせず、ただひたすらに一つの正解を導き出すことを目標としている。

ここではそもそも「作者」や「作品」と言う考えは容易に使えない。ましてや「文学」と言う言葉も使うことに躊躇いがある。これらは近代に生まれた考え方であり、後付けのものであるから、それができた当時から長い間は「文学」として認識されていなかったからである。特に中国古典においては、経書として、政治的文書として、その機能を果たしていたものも多く、中国の一番古い詩歌集といわれている「詩経」はその名の通り漢代から儒教経典として重んじられ、「詩」と言っても現代でいうポエムのような個人の感情を表出したものとは全く性格が異なるものであり、古代歌謡として生まれたものではないかとの研究がなされている。

何千年も前の詩や歌や文章を読み解くことは容易ではないが、それを当時の色のまま蘇らせたい、そしてそのこと自体に価値を見出している、中国古典研究は今ある資料を駆使して、少なくとも間違いがないように丁寧に正解を探ることであると考える。
これは正解ではなく独自の読みを見つける日本近代文学研究と正反対の考え方ではないか。

このように「文学」という括りで同じフィールドに置くことは極めて乱暴なことであり、前提も考え方も研究方法も全く異なるものであることはあまり認知されていない。この二つの話だけでなく、中国近代文学研究や日本古典文学研究、他の国々の研究も異なるであろう。
しかし、あえてここで日本近代文学と中国古典を挙げているのは、私がこの二つに魅了されどちらの研究もおもしろいと感じているからである。

何故かという問いにぴったりと当てはまる答えのようなものはないが、考えてみたい。

ここからは自分の話になるので②にいきたい。ここまでも私の主観で語っていたことも注記しておきたい。

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