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私が真面目なのは、人に迷惑をかけて嫌われるのが怖いからかもしれない


いつも、「あなたは真面目だね」と言われる。
この言葉をかけられたとき、いつも嬉しいとモヤモヤが混ざった感情に苛まれる。
確かに、物事に真剣に向き合って考えることが好きだし、せっかく何かをするなら自分の最善を尽くしたいと思う。
それができることがすごい、と言ってもらえることもあるが、確かにそうだと思いながらも、もっと単純な思考でとっつきやすい人間でいた方が良いのかなと首を傾げてしまったりする。

休職して真面目でいないことの必然性に直面し、自分の真面目なスタンスをどうにかしなければならなくなった。
体力がないため、全てに力を注いでいるとすぐに寝込んでしまうからだ。
でも、真面目でいないと取り得がなくなってしまう気がして、うーんと唸った。

では何に真面目に取り組んで、何には手を抜こうか。
自分のしたいことと体力の帳尻を合わせる作業は困難を極めた。
休職中なので自分の趣味についてばかりだが、美術展に行くだとか、友人と遊ぶとか、興味のある研究書を読むだとか。
どう力の配分をしようと考えたとき、昔の私なら、友人とのお出かけに力を割いただろう。
なぜなら、友人が時間を割いてくれているのに、私が気分が悪くなって楽しい時間でなくなるのが申し訳ないと思うからだ。

この考えは、真面目というか、他人に迷惑をかけることが悪だという固定観念に基づいていると思う。自分になら迷惑をかけてもいいけれども、他人にはダメだからこそ、最優先が友人との予定になるのだ。

こんな固定観念は、私の場合、親の教育の賜物だと思っている。
学校でも家でも、迷惑をかけないいい子として先生に一目置かれたかったという私の感情もある。
そしてなにより、迷惑をかけたら嫌われるという怖さが常にあった。


怖さを覚える理由には、学生時代のこんな経験も影響していたかもしれない。
スポーツが下手だった私は、体育の授業でチーム対抗戦をする時にいつも鈍臭く、周囲からの視線を心から恐れていた。
バレーボールやテニスでは、サーブができず試合にならない。
試合に入ってもパスなどがうまく繋がず、運動部の仲良しグループにコテンパンにされる。
実技テストに影響するため私とチームになりたがる人はほとんどおらず、結局視線に緊張してさらに実力が出せない。

自分の実力がないと人に迷惑をかけ、嫌われる。
そんな風な先入観から、友達に嫌わらたくない私は率先して相手が望むであろう行動を先回りしていた。
そんなことを毎回していたため、とっても疲れていただろうと思う。

今の私は、今は自分の将来に向き合うのが大切だと認識できているため、加えて何より健康第一なので、力配分の最優先は研究書を読むことだと考えることができるようになった。
これが不真面目なのか?と問われると、そうではない気はするが、かつての自分よりは真面目さが和らいだと思っている。

迷惑をかけないことはかつての私にとって、同じコミュニティの人に嫌われないため、自分の尊厳が損なわれないようにするために必要なことだったのだと思う。
その上で、今は、まず大切にしたい私がいる。
そんな私で在るためには、迷惑をかけることがたくさんありそうだ。
そしていつも私に欠けてしまう観点。
「迷惑をかけて嫌われるくらいなら、元々仲良くなれないんだ」
学生時代のように、万人に好かれる必要はない。
いろんな人がいて、主義主張趣味嗜好が違うのは当然で。
相手がもし私にHATEやNO突きつけたとしても、それは私の軸が変わる理由にはならない。

正直、まだまだ人が怖いし、嫌われたくない。
トラウマが呼び起こされる時もたくさんある。
でも少しずつ迷惑をかけることを恐れないようになるために。
自分で在ることを愛せる環境を見つけ、かつ自分のための行動を積み重ねていきたいと思う。

今回もお読みいただきありがとうございました。
そして今回も、ヘッダーに素敵なイラストをお借りしています。ありがとうございます!