見出し画像

13年前の今日

当時の記憶も残念ながら少しづつおぼろげになって来ているので、時系列で当日の発災時から日付が変わるまでをざっくりと記しておく。当日撮った写真を探したがデータが残ってなく、唯一見つかったのが表紙になってる建設中のゲートブリッジ方面を写したものだけだった(別日の写真かもしれない)。

※備忘録と言うかメモ的なもの


2011(平23)年  3月11日  14:46
江東区有明での集荷を終え東京港臨海道路を次の集荷地大田区 城南島へ向け臨海トンネルに入ってすぐにその時を迎えた。

最初の30秒ほどは揺れに気づかず、緊急地震速報も鳴らなかった為そのまま走行していたが、渋滞もしていないのに先行車両が次々に減速、ハザードランプを点灯させ始めた。
その後も減速を続けついに停止、その時初めて大きな揺れに気が付いた。

今まで経験したことのない揺れ方とその時間の長さに思わず「来た、終わった…」と声に出た。

その後40秒程で揺れは収まり、渋滞もしていなかったので車は徐々に動き出し、トンネルから脱出することが出来た。

元々この日は城南島の集荷先で積み込むまで1時間ほど時間があったので、この日晴海埠頭でお披露目されていた太平洋フェリー 「いしかり」の出航を撮影するつもりであったが状況が状況だけに断念、しかしその日同じ目的で船友さんがバスで海浜公園に行っている事を知っていたので心配になりトラックを一路海浜公園へ。

道中何度も大きな余震にあい、その度に緊急地震速報がけたたましく鳴り響く中で何とか海浜公園に到着、時刻は15:25。

15:30に東京湾内湾にも津波警報が発令されたので躊躇したが電話の繋がらない船友さんを探しに公園内へ。
いつも撮影している場所に立ち尽くしている船友さんを発見、無事を喜びラジオでここにも津波警報が発令された事を伝え一緒にトラックに乗って逃げようと提案、そのまま友人を乗せてこの場を去ることにした。
集荷先では商品棚が全て倒壊し、とても出荷できる状況にないとのことだったので来た道を引き返し江東区内にある営業所へ向かう事にした。

幸い道路はまだ通行止めも渋滞もなかったので、余震に脅えながらも40分ほどで営業所近くまでたどり着くことが出来た。
そこで友人と別れ、営業所に着くと地盤の液状化であちこちが陥没し下水管が破断、泥水と悪臭にスネ辺りまでつかりながら事務所へ。
事務所では各車両の安否確認や所内の被害状況の確認、顧客からの問合せの電話でパニックになっていた。
ちょうど電話を切った上司をつかまえ「あと1件集荷残ってるんですがどうしますか?」と聞くと、
「ナシナシ! 帰れるなら家へ帰れ!」と怒鳴りつけられる。
残り1件の集荷先は営業所から徒歩でも10分ほど、とりあえずこちらの状況と先方の状況確認のため自分の自転車で客先に行く事にした。

明治通りは既に大渋滞で車は全く身動きが取れず、歩道も夢の島方面からの帰宅者が溢れ始めていた。
流れに逆行しながらなんとか客先へ到着。
ちょうど担当者が外に出ていたので集荷、発送共に中止する旨を伝えると「こっちも棚が全て倒れて出荷どころじゃないよ、パートさんを全員帰して自分たちも帰宅する」との事。

この先どんな状況になるのか分からない不安で思わず「生きましょうね、ご無事で!」と声を掛けてしまったが先方担当者も同じ気持ちだったと後に語ってくれた。

既に積んである積荷は降ろす事が出来ないので営業所に戻り荷台に施錠、そのまま帰宅することにした。

恥ずかしい話だがそこで初めて家族の安否が心配になった。
顧客や営業所、友人にはすぐに電話したのに妻にも娘にも1度も連絡してない…
「何やってんだよ」と自分で自分を叱りながらまず妻に電話…繋がらない。
娘にも電話、2コール目で出た娘に思わず「生きてる?どこにいるの?」と聞くと自宅に居るという。
ひとまず安堵し、自宅の状況確認、停電の有無、ガスは自動的に止まっているのでメーターボックスの元栓を閉めるように指示、暖房はヒーターを使わずエアコンを使うように伝えた後
「母さんと連絡はついた?とりあえずこっちから電話鳴らし続けるから、父さんも今から帰るよ、テレビで情報を集めて避難の準備をしておきなさい」と伝えて電話を切った。

清砂通り(都道放射16号線)は地下鉄が止まり道路も大渋滞でバスもない為徒歩で帰る人で大混雑、車道にまで歩行者が溢れる程だった。

自転車を押しながら妻に何度も電話、何十回目かの発信でようやく繋がり、無事は確認できた。
当時福祉施設で働いていた妻は利用者さんの帰宅等で手間取るので帰れるか分からないとの事、電話回線の混雑も考え今後の連絡はショートメールにする事を決め、電話を切った。

職場出発から1時間半ほどで帰宅、時計を見ると19:30を回っていた。
この時、後の報道などで知る帰宅困難者のことを考えると我々は発災から4時間ほどで帰宅、安否確認が取れたので恵まれていたと改めて感じる。

21:00過ぎ
「利用者さんたちを無事に帰宅させることが出来たのでこれから歩いて帰る」と妻からのメール
普段バス通勤で30分ほどの距離を2時間かけて23時過ぎにようやく妻帰宅、発災から8時間で一家揃うことが出来た。

その夜は家族全員不安と興奮で眠れず、朝までNHKを食い入るように観ていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?