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考える人をたどって歩く面白さ

先の日曜日、洋楽好きの集まりで、どうしたわけか仏教から哲学の話になった、という話しを先日このnoteでした。

その日の帰り道、ご一緒した方とカフェで話しながら、まだ哲学の余韻が残っているのを感じていた。とはいえ、わたしは体系的に哲学を学んではいない。政治哲学のゼミでルソーを読み、社会学で哲学の歴史をなぞった程度。

ただ、本日は書きたいテーマも特になく、それならあの哲学で感じたことを書いてみようかなと思う。

わたしは人生で哲学っぽい考えに出会えてよかったと思っている。

とはいえ、この忙しい時代、哲学はちょっぴり間抜けな感じがする。新幹線の速さで時が流れる時代に、自転車に乗るほどの違いがある。

ただ、そのまま進んでも大丈夫?とか、あなたはどう思うの?的な問いを投げかけてくれるのはやはり哲学しかないとも思う。


ルソーの社会契約論を読んでいた頃、教授が繰り返しギリシャの話しを持ち出され、そこから大航海時代へ連れていかれ、授業がもうすぐ終わるころ、ようやくルソーの時代に着地した。

あのまったりした時間はいったい何だったんだろう、と思う。


ただ、おかしなもので、あれほど意味がないと思っていた教授の言葉が、今では懐かしく思い出されたりもする。

そうそう、古代ギリシャは決して原始的でもなければ、そう古くもない。

紀元前の古代ギリシャでは政治と教育が貴ばれ、市民が学び議論していた。紀元前に民主主義っぽい社会が既にあったのだ。これはやっぱりすごいことだと今も思っている。

教授がルソーで古代ギリシャを引き合いにだされたのには訳がある。

あの古代ギリシャ時代に既に法律があり、契約社会でもあり、その法律を作るのは市民という社会だったこと。紀元前だというのに、人々にとって最も大切だったのが政治という時代があったというわけ。

男たちは公的領域で議論を交わし、女たちは私的領域で生きるための労働、つまり家事育児などの家の管理を奴隷を使ってしていた時代。

こうして考えると、人は余り進化していないなと思えてくる。いや、性差別を除けば、本気で政治を誰もが語っていたのだから、どこか後退してしまっている部分さえあるのかもしれない。

当時ギリシャでは、男たちは既に平等であることの価値をしっている。まあ、女性がそこから締め出されているところが民主主義ではないのだけれど。もちろん、これはいただけない。


こんなふうに、ルソーから哲学を渡り歩くと面白い。


この古代ギリシャの法律と、ルソーの社会契約のベースは市民が平等で自身の財産を保有出来ること。法律を決めるのは市民という共通点がある。民主主義っぽい。しつこいようだけれど、この市民に女は入らない怒。

ここで、ルソーにほんの僅か影響を受けたといわれる20世紀の哲学者アンナ・アレントに話を持っていくと、、、

ああ、どうしよう、クソ真面目に笑、どんどんつまらなくなっていく。仕方ない、書き始めてしまったのだ。引き返せない。これが毎日投稿の宿命でもある。トホホ。


そうそう、アレントの話しだった。

古代ギリシャでは、公的領域では教育と政治が、私的領域では人が生きるための家事育児等の暮らしが営まれるという、2つの領域があった。

けれど、アレントは、20世紀になると、人の暮らしは労働と仕事と活動の3つに分かれ、労働が優位になり過ぎて、本来政治を語る部分の活動が私的領域と混ざり合い、人々は政治を自分から切り離して語れなくなっているという。

ちょっとややこしいけれど、、、

かつて女と私的領域だった労働が主のこの時代、人々は単なる労働者になってしまい、自分の人間性だとか、個性が十分に発揮できなくなっている。だからこそ、人間社会全体の意志決定政治に対しても、力が発揮できなくなっているという話しなのだ。

もちろん、だから古代ギリシアの2つの領域で暮らさなきゃ、という話ではない。いやいや、そんなこと、とんでもない。

男女平等で、かつ、市民が政治を自分の暮らしや自分の利益から切り離して議論し合える社会にならなきゃだめだろうなという話しなのだ。

市民が本気で政治に関心を持たないと、酷く残酷なことさえ人は平気でできるようになるということ。

考えなきゃだめだよね、という話。

まあ、政治のニュースなどを聞くと、なるほどアレントが言いたいことが分かるなと思ったりする。

とはいえ、やはり毎日投稿には向かない話を尻切れトンボ的にしてしまったと反省している汗。

またいつかこの話の続きは、ネタ切れの日に書いてみたい笑。


※最後までお読みいただきありがとうございました。

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