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私が瀬戸内のウェルネスブランドを立ち上げることになったお話、私のことをお話しします

応援してくださった皆様へ

この度は、UMI+MIDORI/ウミトミドリのプロダクトにご支援いただいた方、ページを見てくださった方、ありがとうございます。これまでこのブランドの立ち上げにあたっては、様々な紆余曲折の過程がありましたが、このブランドの誕生に応援していただき、大変有難く思っております。

このプロジェクトは、あえてALL or NOTHINGという形にしており、達成しない場合はプロジェクト自体がなくなり、プロジェクトは閉鎖、ご支援いただいた皆様には返金されることになります。現時点で、私の方ではご支援いただいた方の情報は拝見することができず、直接メッセージいただいた方のみ、把握しております。皆様とのご縁を繋ぐためにも、なんとしても最後まで目標額を達成し、皆様のもとに商品をお届けしたいと考えております。

これまでのこと

私の話になりますが、私は2020年にフェムテックという分野で創業し、その後初めて会う投資家にプレゼンをして会社に出資いただくことで、スタートアップ企業として開始し、これまで商品の企画・開発、販売を行ってきました。

当時28歳で創業した前回の会社、ブランドの立ち上げは経営はもちろん初心者であり、さらに自分の選んだ分野は未成熟分野。ようやくフェムテックという言葉が認知され出した最近ですが、一言ではお話しできないほどの困難が多々ありました。結果として一言で申しますと、私は前回の経営を断念し、公表はしておりませんがうつ状態が続き、会社を譲渡という形で会社を離れました。お話しできないことがたくさんあるのですが、いろんな困難はつきものですよね。たくさんの方にもご迷惑をおかけしました。

今年地元に帰ることになって

2023年今年に入ってから、長年患っていた父が入院し、想定していた範囲でも最悪の手術を行うことになり、それもあり会社を離れる決断をして自身の地元に戻ってきました。父にとっては壮絶な毎日でした。今年の前半まで鬱状態だった私でも、父を見ていると目の前のことをただ向き合うばかりで、落ち込んでいるどころではありませんでした。

会社を離れた私は父の付き添いをする毎日でしたが、父のおかげで立ち直ることが出来ました。地元に戻ってきてからは、周りの方に「父の世話をして立派だ」と言われ、実際のところは全くそんなことはありません。前回の挫折と離れる決断、父の手術が重なっただけでした。

そんな中何も無くなった私は会社を失った自分自身のプライドは本当に全くないのですが、ただただこれまで応援してくださった方への恩義があり、再び再起するためにもブランドを立ち上げる理由にもなりました。そして、これまでフェムテックの分野で創業して手放した後の私には、まだこの分野にしがみつくような大きな理由があります。

できることと、やりたいことはきっと違います。

私にとってできること、それは四六時中食べることも忘れて没頭すること、商品企画です。情報工学科を創業していて比較的PC周りが得意で、また商品企画も独学で8年間やってきましたが、人に褒めてもらえるほど自分に才能があるとも思えず、ただ、いろんなものやアイディアを組み合わせたり、モニターになってくれる友人や知人の話を聞き、勉強し、一旦作ったものをまた壊したり、視野を広げていく中で、自分が作りたいものと、使っていただいたリアルな人間、女性が、喜んでくれるその先を具体的に想像し、ただそれだけで商品開発をしてきました。これは私自身の願いであって、勝手な思いです。

信念、私の執着は母のことがあります。

18歳の時に母が膠原病で突然亡くなりました。母は私が12歳ごろから働き始め、私が高校生の時から自分で仕事をするようになり、自分で個人事業主の届け出を出して、亡くなる半年前まで必死に働き、仕事をしていました。当時のことを私は年齢を重ねるたびに自分に置き換えて考えるのですが、なぜそこまで働いたのか、家計や子供のためだけだっただろうか、と。大好きな洋服を着るのをやめて、四六時中働き、日焼けをして、夜まで働いて、化粧っ気もなくなり、長い髪の毛は短髪に、昔の母を思い出すと何かを脱ぎ去ったような感じでした。仕事に猛進する前までも母は素敵な女性でしたが、女性という枠組みを取っ払った母はさらに人生一番生き生きとしていました。ですが、当時の私は高校の帰りに港まで軽トラを運転して迎えにきてくれた前髪の張り付いた母を見て、他のお母さんと比較をしていました。同級生は船会社の娘や金持ちばかりで綺麗な身なりのお母さんばかりなのに、どうしてうちの母はこれだけ苦労しているんだろう、友達のお母さんはエンジンも静かでエアコンがしっかり効いた快適なSUVなんかに乗っているのに、制服は毎週クリーニングに出して、定期券も半年分購入して羨ましい。なんてそんな邪なこともよぎっていたのです。今でもそんな心を持った自分のことを許せない自分がいます。

ただ、今思うことがあります。母は子供を理由に何か自分を犠牲にしていたのではなくて、自分の提供した仕事でつながった人や目の前の人に感謝されること、目に見えてわかる成果と自分の行動に喜びを感じていたのだと思います。母の仕事は愛媛県(伯方島)から、広島(福山市)の市場に夜中にトラックで叔父(母の弟)が漁で仕入れた魚を加工して持っていく仕事でした。加工は私も冬場に手伝う時があり、40キロの魚を捌いてやっと18キロほど。カラコギという背中に針のついた魚の頭と皮を包丁で裁いていました。それを母が夜中にトラックで持っていくのです。母が夜中に高速道路で事故をしたこともありました。仕事に夢中になった母を家族は誰も止められません。寝食を忘れて没頭し、楽しんで仕事をしていたのです。母がやってきたことがどれだけの人にいい影響を与えていたのか、それは葬式に参列してくださった仕事関係者の方のお陰で、それがよく理解できました。

ほんの体調不良で寝込んだところから、入院になり、膠原病と診断され、そこからはあっという間の半年でした。最後の病室で母の体をタオルで拭く時に、毎日誰かを見送っておられる看護師の方と体を拭きましたが、数分前まで生きていた母の亡骸は魂が抜けた途端に、物のように感じました。当時の私にとっては母の痩せた人生を歩んできた体を無防備に見られることが嫌だったのですが、体液が出るからとお断りされました。単なる作業に感じたのです。絶対に泣きたくなかったので、目の前のことに追われてあっという間にお通夜、葬儀。昼間に誰もいない時間、居間で母と添い寝をしました。当時のことは断片的な記憶しかありませんが、大人を信頼できず、自室にこもって一丁前にタバコを吸って、弟に愚痴をこぼし、それ以外の誰にも心の内を離さず、人前で泣くこともありませんでした。

母のことを思うと、31歳の今の年齢でもまだまだわからないことがたくさんあります。女性の健康やアンバランスな時期が交錯する女性のバロメーター、メンタルの変化、壮大ですがこれからどう生きていくのか、また子供を育てた母のこともわからないことがたくさんです。また長年特定疾患を患いながらも今もまだ父が生きてくれていること、いろんな思いがあってウェルネスブランドをやり続けたいと思っています。

単なる一言でウェルネスということや幸せになるための答えば出てきません。本当に毎日せわしなく感じますし、病気の父を目の前にしていると、その場しのぎにしかならないもの、安直にさえ感じてしまうこともあります。また私が毎日健康のためにしているよもぎ蒸しやサウナでさえ、今年手術をして障害者手帳を取得し生活様式が変わった父には、私が考えることは医療にはかないません。ただのGOODSにしか見えないかもしれません。ですが、自己肯定感、女性の幸福にフォーカスを当てると、例えば肌が綺麗になるだけで心の状態が変わり、考え方、発言、声色も変わるほど、見えない力を発揮することもあります。

私にとって今ものを作る中で必要なことはエビデンスだけで物事を判断するのではなく、比較することではなく、さまざまな人がいる中で、それぞれの人にとっての幸せにつながるものやきっかけを作りたいと思っています。フェムテックは女性の健康に関わる分野です。ただ性別にとらわれず、体だけでなく、心へ良い影響を与えていくものを作っていきたいと考えています。

育った伯方島、地元のこと

今回私は「瀬戸内の土地の魅力を再確認し・・・」、と様々なところで簡単に文字に起こしていますが、それは瀬戸内の多島美、目に映る景色だけに限ったものではありません。地元に戻ってきてから自分のルーツをもう一度知るために、この土地の成り立ちや歴史をもう一度深く知る機会を持ちました。私の地元の伯方島は伯方の塩で有名な土地ですが、日本で最後まで伝統的な塩田が残った場所です。1971年、時代と共に塩田は近代化のため臨時措置法で全廃止になり、効率的に生産できる製造方法に切り替わりました。当時存続運動があり署名が多数集まりましたが、叶わず。そこから有志を募って創業したのが、伯方塩業株式会社。ネットのない時代に「出世払いに塩」という形で、今でいうクラファンのようなイメージで立ち上がったそうです。ちなみに2023年今年で創立50年です。

埋め立てされたこの土地にはかつての労働者が塩田を行っており、塩田で独立を目指している人もいたようです。塩田に必要な資材の調達のために船が必要になり、造船業、またその船を所有する国内随一のオーナー会社がこの小さな伯方島にあります。私の母方の曽祖父も昔大きなタンカ船を所有していたそうです。現在島の人口は6000人弱、車で周囲20分程度のこの小さな島は船関係と製造業で労働者によって大きく発展してきました。ここで生まれたからには知らない訳にはいかない、人生の大半を費やしてきた先人の労働によって積み上げられてきた場所がこの土地です。

これまでの自分の育ってきた背景をもとに企画が始まり、使う人にとっても心地よい製品であること、それを大前提に企画を進めて参りました。いい商品がたくさんある中で、思いがあったとしても手に取っていただけるわけではないと思います。家族の幸せ、女性の健康、どんなものにも思いがあります。うまくいくかわからない中で立ち上げたブランドですが、本気でUMI+MIDORIを立ち上げたいと思っています。

ご支援いただいた方は、それぞれ違ったご理由でご支援いただいたかと思います。ぜひご支援いただいた経緯など、DM等でメッセージいただけますと大変励みになります。クラウドファンディングは、達成後にご支援いただいた方の名前が私の方で把握できます。皆様のお名前を知り、直接お礼ができるよう、引き続き頑張って参ります。

最後にご報告ですが、この度新聞の取材が決まり、来週取材となりました。詳細はこれからですが、改めてご報告させていただければと思います。

ぜひ今後ともよろしくお願いいたします。長くなりましたが、拝見いただきありがとうございます。

馬場早希


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