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#15 能登へ(2)

3月30日朝10時過ぎ、北陸鉄道の珠洲特急線バスが終着地「すずなり館前」に到着した。
私はバスを降りると、その場には留まらず、すぐに予定の行程に向けて歩き出した。

行く先は、珠洲市三崎町の粟津海岸。
Googleマップで測ると、すずなり館から8.8km離れている。
そこまでの往路と、折り返して復路の最終地となる珠洲市役所前までの距離を合わせると約20kmの行程だ。
帰りのバスは15時発だから滞在時間は5時間弱。
道なりに歩くだけなら十分に間に合うが、何かあれば間に合わなくなるかもしれない。
集中を保ち、必要に応じて足を止めつつ先を急いだ。
スマホは使わず、記憶の道順と、たまにプリントアウトした地図を見直した。
食事はいつもの携行食を持っていったが、結局は飲料以外、何も摂取しなかった。

初めての珠洲。
平常時の様子を知らないため、震災前との比較はできない。
歩き出してみると、市街地では思ったより多くの人とすれ違い、自動車もトラックだけでなく乗用車がたくさん走っているのを見た。
この日が土曜日だったから、避難先から帰ってきている人も多かったのだろう。

市中心部の「すずなり館」を出て東へ。

想定していたとおり、パトロール中の警察車両に幾度も遭遇した。
パトロールは、被災家屋の盗難被害を防ぐために不可欠なことだ。
私のように何用で来ているのか分からない人間は、一種の不審者とも見られかねず、職質はされないもののマークされても不思議ではない。
目礼しながらすれ違い、粛々と歩みを進めた。

徒歩行の中で目にした被災の状況は、前回記事のバスの中からの描写と似ているが、路上に立ってみて改めて倒壊家屋の多さに言葉を失った。
文字通り日常が押しつぶされ、その中に巻き込まれて命を落とされた方がいたかもしれないことが実感された。
被災した家屋は、素人では手の出しようのない危険な状態で、建設業者が順番に解体していくほかはないだろう。
発災から3か月ずっとその状態であることを想像しただけでも、胸が苦しくてならなかった。

被災した家屋や道路が続く。

家屋以外にも被害は至る所に見られた。
道路を歩いていて最初に目に入ったのは、軒並み傾いた電柱だった。
ただ、これは地震に限らず、暴風に襲われた際にも見られるもので、さほど驚かなかった。
地震特有と言えたのは、やはり地面の隆起や陥没による道路の損壊だった。
水道工事などで舗装し直した部分が分離して延々と溝が続いていたり、道路脇の排水溝が道路部分から乖離していたり、損壊の様子はさまざまだった。

歩道に損壊物が転がっているところも。

農地も田んぼの土手が崩れているところがあった。
今回の行程からは外れていたが、市内の若山町では、隆起によって2mもの段差が田んぼを横断して生じたとメディアが報じていた。
山間部に入ると、土砂崩れを起こし、大きな岩がむき出しになっている斜面にも何度か出くわした。

山肌が露出して岩が転がった部分も。

崖の上の木々が道路に倒れかかっている箇所もあり、既に啓開作業が済んで丸太になった木が脇に転がっているところもあった。

啓開作業を終えたあとか。

それから、地域や集落、各家の精神的な象徴でもある寺社仏閣、墓碑、石碑などの被害が各所に見られた。
神社の鳥居や、戦争に関わる慰霊碑・顕彰碑など、石造で大人の背丈より大きいものも多く倒れていた。
これらは、単純に元通りに再建するだけでは安全性が確保できない。
また、再建の是非、先人への思いを改めて問うところも出てくるだろう。

珠洲市森腰の片姫神社。

珠洲市街から粟津海岸への道中で目にしたのは、もちろん震災の爪痕だけではなかった。
満開の河津桜や真紅の椿、道端に目を向ければ小さなオオイヌノフグリやヒメオドリコソウも賑やかだった。

河津桜が咲き誇っていた。
力強く咲く真紅の椿。

そして、土筆がたくさん生えていた。
土筆は、幼い頃に祖父母に連れられて河原の土手へ摘みに行き、それを母が砂糖菓子や卵とじにしてくれたものを食べたものだった。
個人的な懐かしさと、再生する自然の力強さに安堵を覚えた。

個人的に懐かしい土筆。

また、三崎町に入った辺りにある「雁(ガン)の池」(又作池)と呼ばれる農業用水池には、野鳥観察舎が設置されており、鴨と思われる鳥が群れなして遊んでいた。

「雁の池」に群れる鳥たち。

この池は、江戸時代末期に造られた重要な農業用水池であるとともに、環境省の「日本の重要湿地500」にも選ばれており、冬にはコハクチョウが飛来する姿も見られるそうだ。

「雁の池」の野鳥観察舎の案内表示。
池の手前には放牧地が広がっていた。

コハクチョウといえば、市内の正院町の田んぼも飛来地として知られ、それを伝える大きな絵が道路脇の建物に描かれていた。
珠洲の人々は、こうして自然との共生を大切にしてきたのだろう。

「白鳥の里 正院町」

残酷な災害に苦しめられても、そこにしかない自然を愛するがゆえ、その土地に暮らし続けたいと願うのが人間なのだろう。
いつの時代も人と土地は簡単に切り離せない。

徒歩行の道沿いには、水を配っているお店やお寺があった。
支援に来ている名古屋市や自衛隊の給水車も走っていた。
3月30日の時点で、水道は未だ復旧せず。
その困難さは、私が歩いた行程の中だけでも分かった。
報道によると、市内中心部の一部では復旧したが、全体の復旧は5月下旬になるという。

湧水で知られる黒滝山大聖院。

珠洲市をはじめとする能登一帯では、昨年以前も群発地震による大きな揺れに見舞われてきた。
その度に被災が繰り返されてきたことを思うと、気軽に「苦労が分かる」などとは記せない。
地域として、家族として、持続可能性の問題をどう克服していくか。
日常生活を支える安定したインフラなしには、新規転入者を迎えることも難しい。

左手に旧本小学校。名古屋市上下水道局が活動していた。

三崎町への道の途中、2人の年配の女性を見かけた。
一人の方は、畑の中でしゃがみ込み、黙々と植物を摘んでいた。
もう一人の方は、家屋の前に止めた押し車に腰掛け、家の方を見つめて思いを遣っていた。
踏み込むことのできない、止まったように静かな時間だった。

美しい田んぼ。休日だが静かだった。

雁の池から坂を下って海に近づくと、広々とした田んぼに出た。
トンビが空を舞い、昼の暖かな日差しが注いでいた。
しかし、その田んぼで今年も瑞穂の実りが見られるか分からない。
たぶん、本来ならこの時期の休日は、田植えの準備で農機が出始めたり、庭先で苗の準備をしていたり、徐々に賑やかになっているのではないか。
それが見られないのは、そういうことなのかもしれない。

粟津の集落へ。

田んぼを過ぎるとまもなく粟津の集落に入る。
そのすぐ先に海が広がっている。
大なり小なり被害を負った家屋の並ぶ道を歩きながら、私はその地で製塩業を営む事業者の方のことを念頭に、パンフレットに載っている事業所の写真と重なる場所を探した。

粟津にて。写真外の左手先が海。

しかし、道なりに見ても何も分からず、そのまま海岸に出た。
「粟津」の地域の範囲は限られるから、隈なく歩けば見つかるだろうが、時間的にそれほどの余裕もない。

まぶしい海が広がる粟津海岸。

ふと、海沿いの道に車が止まるのを見つけた。
それが地元の人だとすぐに分かった。
家屋の前に佇んでいたところに、私は「すみません」と話しかけた。
こんな状況で突然話しかけてくる余所者を、その方は快く思わなかっただろう。
私は、何の前置きも言い訳もなくお辞儀をしてから、製塩業を営んでいる事業者のことを尋ねた。
私の言葉は標準語で、その方は土地の言葉だった。

その方の方言を正確には記述できないが、こんな言葉だった。
「そんな人はいねえよ?こんな状況でどうやってやるんだ?」
突きつけるように怒りを込めた答えだった。
私の質問の「営んでいる」(会話では「営まれている」)の部分に強く反応していた。
私としても「いる」という現在形表現を敢えて意図して選んでいたから、すぐさま「震災前まで営まれていた方」と問いを改めた。
するとその方は、口調をいくぶん和らげながら、その人は亡くなったのだと言った。
口調を和らげたのは、亡くなった隣人への思いが溢れたのかもしれない。
そして続けて、故人の製塩の作業場が残っており、そこで御子息が寝泊まりしているだろうと教えてくださった。
言葉の最後には、親切心からか、または私を報道関係者と推定したのか、あるいは皮肉を込めてか、「連れて行ってやろうか?」と畳みかけられた。
私は、その申し出を感謝しつつ、この日はそこまでの意図がないことを伝えた。
そして、自分の非礼の謝罪と、見ず知らずの相手にもかかわらず辛い事実を教えてくださったことへの感謝を伝え、深くお辞儀してからその方の元を去った。

粟津海岸にて。

製塩の作業場が残っていると教えてくださった方向へ、私は海沿いの道を歩いた。
穏やかで透き通った淡い青の海。
珠洲の人々、能登の人々が生きてきた海だった。
そこでの塩造りは、きっと生き甲斐そのものだったのだろう。

私は粟津の集落を外れたところで折り返して帰路に就いた。
必ず再訪すると心に決めた。
<続く>

粟津をあとに。

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