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#14 能登へ(1)

前回の記事からあっという間にひと月が経った。
先月中旬に三里塚から瀬戸内へ戻ったが、同月末にまた三里塚へ移動して今に至っている。
今年に入って3度目の三里塚滞在だ。
二拠点生活と言っても、当初の計画ではこんなに頻繁に移動を繰り返すつもりはなかった。
様々な事情からそうすることを選んでいるわけで、結果として良かったこともあれば、一方に移動したため、他方で諦めざるを得ないこともあった。
移動を繰り返して軌道修正をしているわけではないが、いろいろと新しい局面を迎えていることは確かで、こうした状態はまだしばらく続くと思われる。

今回の三里塚滞在は、いくつかの予定がとびとびに入り、今のところ4月下旬までのひと月弱となる見通し。
戻ってきて数日のうちに、「そのために戻ってきたのだ!」と思えるような嬉しい予定も新たに入った。
戻っていなければ巡ってこなかった出会いだった。
そんなわけで、三里塚での活動はまだしばらく終わりそうにない。

三里塚に戻って即日のジンギスカン

さて、表題のとおり、今回は能登について。
三里塚に戻る前々日の3月29日夜から30日夜までの丸1日で能登半島を訪れた。
もちろん観光旅行ではない、別の目的があった。
今年元日の能登半島地震に関することだ。
4月2日時点の国の発表によると、人的・住家被害等の状況は、死者245名(人的被害合計1545名)、住宅の全壊が8695棟(住家被害合計11万3990棟)。
震源地となった能登地方の被害が特に甚大だった。

最大震度7を記録した今回の地震だったが、志賀原発が制御不能な状態に陥るといった悲劇は免れ、津波被害も比較的小規模で済んだ。
それでも、発災から3か月が経った現時点で、被災した方々の避難生活は続いているし、インフラも完全復旧にはまだ時間を要するだろう。
「それでも」というか、「それゆえ」にというか。
政治的な事情は別としても、能登の復興には思いのほか時間がかかるのではないか、という懸念が私の中にある。

奥能登2市2町の通れるマップ(3月15日13時00分時点、石川県HPより)

半島という地理的条件に加え、少子高齢化が加速する人口動態を踏まえて、震災復興と同時に復旧後の社会維持に向けて、どう立て直していくのか。
発災から3か月の時点では時期尚早かもしれないが、被災地の復興には将来のイメージを前向きに描くことが欠かせない。
しかし、血の通った将来のイメージは、離れた場所で机上で考えても無意味で、確たる考えも生まれない。
現地はどうなっているのか。
自分なりに考えを整理するため、まずは現地を見たいという思いがあった。

東日本大震災のときは、発災から40日ほど経った4月の下旬に初めて気仙沼を訪れた。
今回の能登訪問も、本来ならもっと早くにしたかったが、冒頭のとおり個人的な暮らしの変化や、被災地の交通状況から、なかなか思いきれずにいた。
それでも、二拠点生活の振り子のような東西移動の中で「近いうちに必ず」と思い続け、このタイミングでようやく踏み切ることができた。

私の被災地訪問の目的は、いわゆる復興支援活動ではない。
平たく言えば取材活動にあたるが、報道的立場でもない。
現地の方々の暮らしに極力邪魔にならないよう、現地のリソースを極力費やさぬよう、その土地を歩いて記憶し、そこから小さな縁を紡いでいくこと。
その結果、何かしら形に残るものが生まれるかもしれない、生まれないかもしれない。

故郷付近の入浜式塩田風景(浦崎町所蔵)

また、今回の能登行には、被災地訪問だけでなく、もう一つの意味があった。
それは、伝統的な製塩業が受け継がれてきた土地を目にすることだった。
過去のnote記事でも書いたが、私の故郷は製塩業で栄えた町で、私自身の瀬戸内への生活シフトも、これまでの「羊」から「塩」へとテーマを移行していくことを意図している。

故郷付近の牧羊風景(浦崎町所蔵)

その文脈でいくと、能登訪問自体は、たとえ年始の震災がなくてもいずれ実行しようと考えていたことだった。
ならば、敢えて被災した困難な状況で実行する必要もなかろう?と言われればそれまでだ。
しかし、大規模地震に見舞われた今、高齢化に苦しむ伝統産業がどこまで続くか分からず、震災後の報道を耳にしてからは少なからず焦りも募っていた。
思い立ったときに行動しなければ手遅れになるのは何でもそうだ。
今行くしかないと思った。

昭和29年「全国塩田地図」
(公益財団法人塩事業センター・製塩資料室デジタルライブラリーより)

現在、能登半島の製塩業で知られているのは輪島市と珠洲市で、半島北部「外浦」エリアの両市境界のあたり。
金沢から公共交通手段を使い、日帰りでどこまで行けるかを数日前からシミュレーションした。
製塩の現場付近までたどり着く路線バスはまだ運行再開していない。
輪島と珠洲の市街地から歩き、金沢行きバスの出発時間までに戻ってこようとしても時間切れになる。
金沢からレンタカーを利用することも考えたが、やはり自分の中のルールで除外した。
そうなると、悔しいが外浦の海岸線の外れに立つことだけで諦めるほかないのか。

金沢に着いた日も、諦めきれずに深夜までリサーチを続けた。
現在も製塩事業者がいる外浦エリア以外にも、歴史的に製塩業が営まれた場所は存在したのではないか。
調べてみると、江戸時代には能登一円、外浦だけでなく内浦にも塩田があったのだという。
そして、珠洲市の内浦側には、そうした伝統の地で製塩の火を絶やすまいとする事業者が、震災前の時点で複数存在していたことが分かった。
内浦側であれば、珠洲のバスターミナルから時間内に往復できる。

能登半島 珠洲の塩協議会のパンフレット「珠洲の塩の道』より
同上

こうして30日未明になって行き先が珠洲に決まった。
北陸鉄道が運行する珠洲行きバスは朝7時発。
席に余裕がある場合に限って、バスに乗ることに決めた。
席がなければ輪島線の様子も見て、そちらも余裕がなければプラン変更。
白山市の羊がいる地域へ行こうと計画を立てた。
羊の元へも行きたい気持ちがあった。
しかし、今回はどうしても塩だった。

3月30日、朝7時前。
金沢駅西口7番乗り場には、老若男女20名近い人が列をなしていた。
珠洲特急線のバスが到着し、人々が乗り込んでいく。
それを見届け、発車時間まで待ってから、まだ席に余裕があるのを確認してバスに乗り込んだ。

一緒に乗った人たちのほとんどは、週末を利用して帰宅する避難者か、地元関係者と思われた。
中学生ぐらいの子供もいて、楽しそうに話している声も聞こえた。
窓外には見送る人の姿があり、車内の相手にキスを投げる人もいた。
別れ難さの中で、バスは静かに出発した。

金沢駅を出発したあと、バスは「のと里山海道」(自動車専用道路)を走り、徳田大津ICで下りてから、七尾市中島町、穴水町、能登町を経て珠洲市へ入った。
停車地は、穴水駅前、穴水此の木、のと里山空港、柳田天坂、珠洲鵜飼、上戸、珠洲市役所、すずなり館前。
7時に出発して10時過ぎに着いた。

その間、車窓から見た景色は、やはり厳しいものだった。
徳田大津ICを降りて下道を走ると、まもなく被災した家並みが目に入ってきた。
黒い能登瓦を載せた日本家屋の棟々にブルーシートがかかっているのを見ただけでも胸が痛んだ。
しかし、バスが進むほど、ブルーシートの数が増え、窓まで覆われ、ブルーシートをかけることもなく躯体が潰れてしまっている家がいくつも続いた。
のと里山空港周辺でも、道路に亀裂や隆起が発生しており、スムーズに走行できない部分があった。
バスが通行できる幹線道路沿いでさえ、そうした被害がたくさんあったのだから、少し外れた市町道・農道はまだ手もつけられていないところが多いだろうと想像された。

途中の停車地で数人ずつが降りた。
半分以上の人は終着地の珠洲市まで乗っていった。
ターミナルの「すずなり館」に到着すると、建物の周りに地域の人たちが列をなしていた。
生活物資の支給を受けるためだろう。
バスが入ってくると、多くの人が車内に視線を送ってきた。
知り合いが乗っているかもしれない、と思ったのだろう。
私は独り申し訳ないような恥ずかしいような気持ちになり、思わず視線を逸らした。
バスが止まると、降車の列が短くなるのを待ち、運賃を支払ってから初めての珠洲の地に降りた。

2005年に廃線となった「のと鉄道能登線」珠洲駅
バスが着いた「すずなり館」の隣接地。ここから徒歩行へ

<続く>

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