見出し画像

名付けようのない踊り(日々のトコトコ日記)

近所の商店街を歩いていたら、大きなトラックが止まっていて、反対側から乗用車がすれ違おうとして四苦八苦しているところだった。
運転手の心もちを思うとハラハラして、トラックの後ろに立ち止まって無事すれ違いが終わるのを待った。
ゆっくりゆっくり乗用車は進んで、ついに無事にすれ違い、やれやれ〜というきもちで乗用車の来た方に目をやった。
するとそこには、おまつりの御神輿や山車の後ろみたいに、ぞろぞろと人がくっついてきていた。
結構長い時間人の通りを止めてしまってたんだろうな。
そのぞろぞろがやけにかわいらしくおもしろくて、ひとりクククと笑う。

ぞろぞろ、といえば、田中泯さんの踊りについてくる人々を思い出した。
「名付けようのない踊り」という、犬童一心監督が撮った田中泯さんのドキュメンタリー映画を見たのだった。
どこかでこの映画のポスターを見て、なんだかよくわからないけど見てみたいと思って忘れていたところ、見たという知人からいい映画だったきっと好きなんじゃないか、と連絡があり、すぐに見に行ったのだ。
泯さんの踊りは「場踊り」と呼ばれる、その場で即興で紡ぎ出される踊りだ。
その踊りを見ていると、心がざわつき、不安になり、目が離せなくなる。
例えば木から掘り出し、削り、磨いて洗練し、人の手に馴染む美しいものを作っていく。
そんなことの対局に泯さんの踊りはあった。
はじめは一体なぜこんなにも「きれいに見せない」のだろうと思った。
土着と、トランスと、狂気のようにも見える。
けれど、目を逸らさずに見つめていると、泯さんは人間を踊っているのではなく生命を踊っていることがわかってきた。
「ぼくの子ども」である子どもの泯さんは、空を眺め、やがて雲が消えるところを目にする。
泯さんはまるで筒のようだと思った。
彼は空と大地と海をつなぐ筒で、汚いもきれいも、狂気もまともも、人間もそれ以外も境目はなく、ただそこにあるものに極限まで同化して踊る。
見る人がいっしょに踊れるための余白を、我慢の限界まで引き伸ばす。
わからなさを見る人に説明しない。
わからないままに感じることが私たち観客の踊りだと思った。
映画の中で、愛媛で、池袋で、道を場踊りをしながら読み用のない動きで進む泯さんのあとを、たくさんの人が取り囲みながら進んでいた。
ぞろぞろ、というよりは、息を呑みながら、わからなさに困惑の笑みを浮かべながら、おそるおそる、かもしれない。

舞台でなくても、人に囲まれた場所でなくても、泯さんは踊る。
蜘蛛一匹と。小さな町のすみっこで。ひとり恍惚の笑みを浮かべる。
踊りのために鍛えた体で踊るのはちがうと、40歳の時に農業で作った体で踊ると決めてからそのように生きてきたのだという。
日に焼けた真っ黒な体で畑を耕し、野菜を収穫し、猫を愛でる。
その体で「名付けようのない踊り」を踊る。
都会的とは対局の場所に身を置いているのに、父親の残したという古いコートを着て立つ姿は美しく洗練されていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?