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松浦寿輝『半島』《砂に埋めた書架から》40冊目

 第56回読売文学賞を受賞した松浦寿輝の長編二作目『半島』

 前作の長編『巴』は、“形而上学的推理小説”と謳われているものの、衒学的でありエロティックであり、ミステリーの枠に収まらぬ純文学的要素満載で、私はそれこそ舐めるように読んだものだった。

 今回の『半島』も、まさしく“舐め読み”を誘ううねうねと這うような文体で、読む者をしっかりと酔わせてくれる。

 大学の講師の職を辞め、ふらりと瀬戸内海に突き出た半島の先端に位置する島に滞在を始めた主人公の中年男、迫村(さこむら)。この島に来たのは、休暇でもなく、余生を送るためでもなく、敢えて言えば「雌伏」の期間だと捉えている迫村だが、しかし、そういう観念を次々と幻惑し、混乱させる出来事に遭遇していくのである。まるでこの島のあちこちには、人を迷宮に誘う磁場が張り巡らされているようなのだ。

 戸川老人、その娘の佳代、中国女の樹芬(シューフェン)、元教え子で質屋の向井、易占い師のロクさんなど、独特の登場人物たちと交流しながら、そして、ときに自分の影とも対話をしながら、迫村は、時間の正常に流れないこの島の、建物を、路地を、地下を、坑道を、彷徨う羽目になる。

 全六章で構成されるこの『半島』だが、私が注目したのは、章ごとに必ず迫村が“迷宮”に嵌り込む箇所があることだ。例えば、最初の「植物園」の章で言えば、ゲームセンターのトイレへ向かう通路で、迫村は現実が溶解し、異次元に放り込まれたような、何とも言えない状況に落とし込まれてしまう。

 この小説の魅力は、このような「陥穽のスポット」とでも言うべきものが、様々な形態で、主人公の行く先々に埋め込まれていることにある。章を重ねていくうちに、だんだんと読者は、その違和が開始される兆しを、事前に感じ取れるようになってくる。それが不思議と心地いい。

 最終章「月の客」で、松浦氏は文章で構築した迷宮を、まるで解体して整理するかのように謎を明かし、手の内を晒す。鮮やかな幕引きである。


書籍 『半島』松浦寿輝 文藝春秋

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■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2006年7月に作成したものです。

 書店で知らない作者の新刊本を手に取り、表紙と帯だけを見て何気なく最初の出だしを読んだら、自分の好みと一致する文章だったために、どんな評判なのかも知らないまま、勢いで単行本を購入することがあります。これまで本を読んできたことで蓄積した自分の「勘」だけを頼りにして。

 私は松浦寿輝氏の小説と、そういう風にして出会いました。1999年の夏のことです。そのとき購入したのは『幽(かすか)』という作品集でした。一話目の「無縁」という小説の冒頭で、私は心をぐいっと持っていかれてしまったのです。


 残暑もおさまりもう秋風が立ちはじめているというのに裏庭の格子塀に蔓を這わせた淡紫色の朝顔がいつまでも花をつけつづけているのが何だかあさましい。

松浦寿輝「無縁」より 『幽(かすか)』所収 講談社


 読点を打たずに作られた長めの一文ですが、するすると読めてしまうリズムの良さと、読み手の感情が要所要所で屈折するように真っ直ぐには運んで行かせない趣向が、この文章には施されていると感じます。うねうねと這うような文体、と私が言うのは、この「無縁」の冒頭を読んだときから始まった印象でした。

 その作品集の表題作『幽(かすか)』が第121回芥川賞の候補となり、その後に発表された『花腐し』(2000)で松浦氏は第123回芥川賞を受賞します。

 初期の小説を読んで気付くのは、松浦氏の作品には、黄昏、暁闇、夕暮れ、薄暮、逢魔が時、といった周囲が暗闇に溶け込もうとする時分、あるいは夜の闇から次第に明るくなる、そんな薄明や薄闇の中から、物語を立ち上げていることが多いということです。この『半島』も例外ではありません。この指向は、処女小説『もののたはむれ』(1996)の頃からも始まっていて、松浦氏がそのことに意識的であったことは、『青天有月(エセー)』(1996)で黄昏と暁闇について深く考察していることからも明らかです。

 薄暗くてよく見えない、物事が不分明で判然としない……、そこから始動する松浦氏の小説世界は、あの世とこの世を混濁させ、清純な乙女を妖婦に変えるが如く人間の表と裏を暴き、最後は夢でも見ていたかのように、また黄昏の中にぽつんとひとり戻される、といった突き放すような読後感があります。何とも言えない独特な魅力です。

 すべては文章。私が本を選ぶ理由は文章だということが、松浦寿輝氏の作品を愛読することで、改めて自覚できたように思います。

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