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スティーヴン・キング『ザ・スタンド』《砂に埋めた書架から》11冊目

 スティーヴン・キングの初期作品の中でもっとも長大なのがこの『ザ・スタンド』である。キング自身、初稿の執筆に十六ヵ月要したことを、『小説作法』という著書の中で打ち明けている。日本での翻訳がずいぶんと遅れたのも、この長さゆえだろうか。
 ファンを長い間待たせたこの作品は、なるほど、徹頭徹尾、エンターテインメントな仕上がりになっている。

 兵器として極秘に開発したウィルス、「キャプテン・トリップス」。それがある日、漏洩事故を起こす。のちに「スーパー・フルー」と呼ばれるこのインフルエンザ・ウィルスは、瞬く間にアメリカ全土に猛威を振るい、大量の人々に咳、鼻水、発熱をもたらし、最後は死に至らしめる。
 死屍累々と街には死体が増えていくが、しかし、中には先天的に免疫を持った人たちがいた。彼らは家族や恋人の死に嘆き悲しみながら、廃墟のような世界を彷徨い、他の生き残りたちと出会っていく……。

 近未来パニック小説という趣で幕を開けるこの『ザ・スタンド』だが、キングは細やかに人物たちの背景を書き込み、厚みのある群像劇に仕立てている。文庫にして全五冊という長丁場だが、ウィルスで死滅する人間の絶望や悲哀を延々と書き連ねただけで終わるといった、そんな単純さとは無縁の作品である。スーパー・フル-の猛威を収束させたあと、次にキングが用意したのは、廃墟となったアメリカに善側と悪側の共同体を作り上げるという、壮大な展開なのだ。

 善と悪、陰と陽、神と魔、美と醜、賢と愚、など様々な二項対立の図式をぶつけ合うことで面白さを醸成させるキングの手腕は見事だ。しかも闘いの最終的な解決策に、今なら“禁じ手”とも言えるあの手段をキングは用意しているのである。

 最後に趣向を変えて、『ザ・スタンド』の印象的だった登場人物たちについて、個人的なコメント書いてみる。
 まだ本編を読んでない人にも、これらの人物の魅力がいくらかでも伝わるといいのだが。

■スチュー・レッドマン
本編の実質的な主人公。キングが彼のようなブルー・ワーカーをメインに据えたことに、ある種の心意気を感じた。

■フラニー・ゴールドスミス
勝ち気だが美しい娘。今でいう“ツンデレ”だろうか。でも賢いので母性愛も含め最後まで魅力的である。

■ラリー・アンダーウッド
アメリカ人に人気がありそうな人物。常にジージャンにジーンズというイメージがあるのはブルース・スプリングスティーンのせい?

■リタ・ブレークムア
本当に苛々させられた。2巻目の途中で頁を捲るのをやめ、何ヶ月も読まずにいたのは彼女のせいかも知れない。

■ハロルド・ローダー
身近にいる嫌なやつ、を考えたとき、多くの人はハロルドの中に共通項を見つけることができると思う。この人物造形はすごい。

■グレン・ベートマン
この社会学者が「闇の男」と対峙したときに言い放った、その言葉のあまりの格好良さに痺れた。

■ニック・アンドロス
聾唖の青年であり賢者。ジュリー・ローリーと対面したとき、同じように抵抗できないだろうなと思う自分がいる。

■トム・カレン
彼を好きになれない読者はおそらくいないのではないか。あまりの純粋無垢さに泣けてくる。

■ナディーン・クロス
美人の元教師。実は処○。それなのになぜあんなにいろいろ技巧的なことまで知っているの? でもキングさん、OKです。

■ラルフ・ブレントナー
安心して読める人柄。この世界で自分がまともかどうか、彼の発言や行動に共感できるかが試金石になったりして。

■ロイド・ヘンリード
悪役だが嫌いになれなかった。彼の中にある迷いは人間の弱さと良心そのものだ。

■〈ごみ箱男 (トラッシュキャン・マン)〉
ただの狂言回しやトリックスターでは終わらない存在感。歌を口ずさみながらふらふら歩く姿がなぜか目に焼き付いている。

■〈ザ・キッド〉
一時しか登場しないのに印象強すぎ。彼のような狂人の助手席に乗ったらそら生き地獄だわな!

■ディナ・ジャーゲンズ
強い女性である。絶体絶命でも自分を見失わない強さ。自分の中ではなぜか黒革のつなぎを着た峰不二子だった。

■マザー・アバゲイル
神懸かりになった現在よりも、歌が上手だった少女時代の回想が、何ともよかった。

■ランドル・フラッグ
この超越的な存在をどう自分の中に据えておけるかが問題。「20世紀少年」の〈ともだち〉は、やはり彼へのオマージュか。

■コジャック
とてもお利口さん。もちろん大好き。彼が長生きすることを始めの方で明かしてくれたキングに感謝。


書籍 『ザ・スタンド』スティーヴン・キング 深町眞理子・訳 全5冊 文春文庫

◇◇◇◇

■追記■

 この書評(というよりは紹介文と主な登場人物への感想コメント)は、2006年6月に作成したものです。

 スティーヴン・キングの作品は今も多くの人に読まれています。読んだことがない人でも、映画化されたキングの作品を観てない人はいないのではないでしょうか。
 ホラーが苦手、怖いのが苦手、という人でも、青春映画の傑作『スタンド・バイ・ミー』なら、きっと大丈夫なはずですし、『ショーシャンクの空に』においてはホラー要素なしの感動作なので、キングの原作だと気付かない人もいるかも知れません。

 私はキングの映画作品を全部観ているわけではないのですが、フランク・ダラボン監督の『ミスト』は、やはり忘れられません。深い霧に飲み込まれた街のスーパーマーケットが舞台となる中編『霧』が原作ですが、映画で新たに付け加えられた衝撃的なラストシーンは、キング自身も、自分が先に思い付いていたらこのラストを採用したと語っていたのを何かで読みました。 公開当時、私は一人で観に行きましたが、どーんとした気持ちになって映画館を出るとき、外に霧が立ちこめてないか気になり、辺りを飛んでいる虫にも怯えてしまったことを覚えています。

 キングは、ストレスがかかった状況での集団内で発生するパニックを描くのが、本当に上手いと思います。『霧』もそうですし、旅客機内で怪異が起こる中編『ランゴリアーズ』も、そしてこの『ザ・スタンド』も。それくらい人間というものを観察し、人間の心の複雑さ、脆さ、を理解し尽くしているのでしょう。そして、最も驚くのは、たくさんの人物を小説の中で動かしながら、それが読者にも実在の人間のように感じさせる描写力です。私が先の感想文の終わりに、登場人物の感想コメントを残せたのも、読了した後になってもしばらく『ザ・スタンド』の中の人物の印象が残り続けたからです。感服というほかありません。

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