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本棚は生き物である【エッセイ】

 自分の本棚を写真に撮ってみて気付いたことがあった。写真を撮るたびに表情が微妙に変わっている。そう、本棚は生き物なのだ。

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2021/4/19 / 2022/3/13 /  2022/4/8


 本の出し入れをしているうちに、本があちこちに移動してしまう。元の場所にしまう気がないのではなく、しまうところがないのが原因なのだ。
 私のメインの本棚は、現状、床の上といっても差し支えない。



 自分の部屋がそんな状態なので、私は本に関しては非常に恐縮しながら暮らしている。自分の机が書物で埋もれているので、実は妻の机を間借りしている。その借りている机の上にも今は本が積み上がっている始末だ。

 そもそも私は本を処分できない。本を処分することに抵抗があって、それは高校三年までお小遣いで買った小説や漫画本を、自分の知らない間に処分されてしまったからだ。実家に帰省して空っぽの本棚を見たときはショックだった。私はそれ以来、本を捨てられない体になった。


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『男の隠れ家』2001年5月号


 本棚には昔から憧れがある。特に小説家の書斎にある本棚を見るのは好きだった。この雑誌はそれこそ舐めるように何度も見た。庄屋作りの古民家風の内装が素敵な筒井康隆氏のお宅にある整然とした書斎や、町田康氏のアンティークを飾ったコーナーが設けられているお洒落で機能的な書斎には、たいへん憧れた。たいていの作家は大きな木製の書棚に本が綺麗に並べられていて、佇まいに美しさがある。羨望しかない。

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 この間から「#わたしの本棚」というタグで記事を書こうと思っていたが、私の本棚は生き物なので流動が激しく、綺麗に揃えてもいつのまにか秩序を失い乱雑になる。そのため、普通に本棚を晒すことに意味があるのかよくわからなくなった。そこで考えたのだが、山下達郎さんのFMラジオ番組サンデーソングブックの人気企画にあやかり、レコードではなく、本を〈棚からひとつかみ〉して紹介するのはどうだろうか。それなら、何とか意味のある本棚エッセイになるのではないだろうか。

 ところで、「読書マウント」という言葉が最近巷で囁かれているようである。意地悪な気持ちでマウントをとる人も、とられたと言って騒ぐ人も、心中は察するが、一過性のものだという気がする。読書について各々価値を見つければ、マウント行為など気にならなくなるはずである。私の本棚紹介もマウントをとる意図はない。そもそも読書マウントにはならない。なぜなら、私は読んだ数よりも、圧倒的に読まない数の方が多いからである。私はただの、本を処分できない人、に過ぎない。

 今回は手持ちの海外SF小説を〈棚からひとつかみ〉してみる。なぜこのジャンルかというと、読んだ本よりも読みかけや未読が群を抜いて多いからである。言うなれば年季の入った進行形の本たち。私は気に入れば何度も読み返すので、実質、本に終わりはやってこない。


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 まずは海外SFの古典から。フレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』、アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』、ロバート・A・ハインライン『夏への扉』『宇宙の孤児』、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』は読んでいる。(アイザック・アシモフは『黒後家蜘蛛の会』は持っているのに、SFを一冊も買ってないのが自分でも不思議だ)

 クラークの『宇宙のランデヴー』(1973)は、太陽系に直径四十キロ、自転周期がわずか四分という巨大な円筒形の漂泊物体が侵入してきたのを発見し、その謎の物体(ラーマ)を調査するため、人類が宇宙船を接近させてランデヴーを試み、内部に侵入するというお話。このあらすじだけで私などは興奮してしまう。
 実際、2017年に太陽系外から飛来してきた謎の物体「オウムアムア」のニュースに接したとき、色めき立ったSFファンは多かったと思う。私もすぐにクラークのこの小説を思い出して「ラーマだ!」と興奮した。


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 次の棚は主に八十年代の作品。バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』、デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』、グレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』『永劫』は読んでいる。古典のカート・ヴォネガット・ジュニアは手つかず、サイバーパンクのウィリアム・ギブスンは予想通り最初で挫けた。

 挫折することが多い海外SFだが、それでもこれまで読んできた中で、私がもっとも好きな作品がここにあるブリン『スタータイド・ライジング』である。世界観に慣れるまで最初は苦労するが、最後まで読んだ人は絶対にこの作品を好きになると思う。それほど面白いスペース・オペラだ。宇宙船の乗組員がイルカと猿と人間の混成チームというのがまず面白い。しかも船長がイルカという度肝を抜かれる設定。さらにこの頭のいいイルカたちは俳句を詠むのだ!


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 SF最後の棚は古いものから最近のものまで。マイケル・クライトン『インナー・トラヴェルズ』はノンフィクションだが限りなくSF的。ジェイムズ・シュミッツ『惑星カレスの魔女』は多くの人がそうであったように、宮崎駿のカバー絵につられてジャケ買い。スパイダー・ロビンスン&ジーン・ロビンスン『スターダンス』、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』は表題作のみ。以上を読んでいる。

 未読が本当に多い。面白いと評判のものばかりのはずだが、紹介した全体の四分の一しか読めていない。だが読みたくて買っているので後悔はしていない。誰かが言っていたが、SF小説ほど文庫の裏表紙にある紹介文を読んだときの吸引力がすごいジャンルはないように思う。好奇心が刺激され、夢が広がる。それをこれから読めるのだから幸せだ。積ん読を眺めるのも本棚の楽しみと言えるのである。


 以上、「#わたしの本棚」を紹介したが、これでよかったのだろうか。本棚ではなく、積ん読の紹介になっていないだろうか。

 海外SFよりも、さらなる床の混沌から本を引き上げて純文学の棚をお見せした方がよかっただろうか。それとも、自然のまま雑多に詰め込まれた本棚を紹介した方が、その人らしさが垣間見えてこの企画の趣旨に合っていただろうか。

 ここにきて、急に不安になっている。



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