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時代から取り残されることの恐怖

久々に記事に対して思いを書きます。


“「乗り遅れることへの恐怖」というものは、今の時代、誰もが感じることです。「スピードを落として立ち止まったら、こんな経験もあんな経験もできなくなる」「こんなにいろんなことをすべきなのに、人生がムダになってしまうのではないか?」”

確かに私自身も恐怖を感じる部分があります。

とはいえ私はどんな生き方でも良いと思っています。もし日本の社会だけで生きていたらそのように考えることは難しかったかもしれません。


転機だったのは、青年海外協力隊として文明とはかけ離れたところで電気も水道もない僻地で自給自足している部族の方々と出会ったことです。

人間は色々な状況で生きていけるのを目の当たりにしたことで、価値観の多くが思い込みだったことに気付かされました。


そのような村では成長し続けることや時間の無駄というような概念が非常に薄いです。もしあるとしたら生きていくための死活問題になった時でしょうか?

あるおじいさんは家の前のボロい椅子に座って一日中過ごし、おばさんたちはおしゃべりをして過ごす。そんな日々がただ続いていくのです。

では成長しない彼らは怯えているでしょうか? 死んでしまうのでしょうか? 不幸なのでしょうか? 私には全くそのようには見えませんでした。だから驚愕してしまったんです。こんな生き方もあるのかと。


そんな人たちがいるのを目の当たりにできたことが、立ち止まることへの恐怖を和らげてくれました。人間はいかに思い込みや知っていることだけの世界で生きているか。逆にいえば、村の方々が他の世界を知った時、驚愕するんです。いかに自分たちが狭い世界で生きていたか。

とはいえ私は、その後十数年自己進化(深化)を求め走り続けました。それは自分がそうしたいと思ったから。そして一つの区切りをつけた時、自分に問いかけました。

「いま一番何がしたいか?」

そしてずっと心の片隅に置いてあった家の前で一日中座っているおじいちゃんの光景を思い出し、

「何もしなこと」が ”一番したい” こと。


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