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二人組は、一人と一人でできている。

「幼い頃から、二人組になるのが苦手だった」と主人公が話していて、私は思わず引き込まれてしまった。
現在放映中の『いちばんすきな花』というドラマである。

登場人物たちは皆それぞれ、人生に何かしらの違和感を感じながらも、適応しようと努力したり、時には諦めたりしながら日々を過ごしている。
このドラマは、そんな四人が出会ってはじまる、新たな時代の「友情」の物語。同時にそれは、「恋愛」も「友情」もぜんぶ含めた「愛」の物語(番組オフィシャルサイトより)。


私が子どもだった昭和の時代、学校では今よりもっと、二人組になることが強要されていて、ことあるごとに同性の誰かとペアを組んだ。
そのこと自体に疑問を感じる暇もなく、私たちは常に、誰とペアになるかに全集中していた。

当時、「ペアになりたい」と誰からも望まれる子には共通の特徴があった。
優しくて思いやりがあり、賢くてユーモアがあって一緒にいると、毎日をとても楽しく過ごせる。そんな子とペアを組めたら、学校生活の満足度が格段に上がるのだ。

小学生だった私はいつも、クラスで一番の人気者に、すっと近付き、その懐に潜り込み、あっという間に仲良くなることができた。そういう処世術に、私はとても長けていた。

ところが転機が訪れる。転校生がやってきて、クラスの女子の人数が奇数になってしまったのだ。
担任が、「入れてあげてね」と私たちを指名する。その結果、私たちだけ二人組が、三人組になってしまった。

その途端、私の立場は揺らいだ。
友達は当然のように、まだ学校に慣れていない転校生を優先する。そうすると、ごく自然に私は取り残される。気が付くと、私だけがペアのいない一人ぼっちになっていた。

その時私は、大袈裟ではなく、世界中で自分だけが仲間外れで、誰からも必要とされない人間なのだ、という思いに取りつかれた。それは、惨めさ、恥ずかしさ、居たたまれなさ、孤独感などが混じり合った激しい痛みだった。


近年になって本格的な心理療法と出会った私は、自分の症例に「発達性トラウマ障害」「複雑性PTSD」「愛着障害」など、いくつもの名前がつくことを知った。

「発達性トラウマ障害」とは、幼少期から継続して「深刻な暴力を受けたり、目撃する」または「ネグレクト(育児放棄)される」ことによって、心的外傷(=トラウマ)を負った状態をいう。この結果、「人とつながるための迷走神経」が十分に育たないまま成長し、人と関わったり、うまく周りに合わせることに困難を感じる、「愛着障害」と呼ばれる症状につながる。

「愛着障害」を抱えている人たちは、「ニコイチ」の対人関係を求める共通項があるのだという。2個で1個だから「ニコイチ」。二人なのに、まるで一人のように重なり合おうとするのだ。

自我には本来、自分と他人とを分ける、目に見えない「境界線」というものがあって、その「境界線」の内側に、それぞれの「自分軸」がある。
この「境界線」を踏み越えて、甘えと依存で結び付こうとするのが「ニコイチ」の関係なのだそうだ。


高校生の頃の私は、まさにこの状態だった。
小学校での辛い経験を踏まえて私は、誰かとペアであることに、より一層、執着するようになった。相手はやはりクラス一、学年一の人気者。そしてペアになった以上は、誰にも割り込まれたくない。

「親友」という名の私たちは、一日の大半を一緒に過ごした。携帯も、メールもLINEもない時代なので、家の固定電話でいつまでも長話をする。授業中に書いた手紙を休み時間に交換し、その返事をまた授業中に書いた。

その一方で私は、無意識に「親友」以外とは親密になることを避けようとしていた。不特定多数の人の気持ちを、完全に理解することなど誰にもできない。だから私は、傷付くリスクに晒されるくらいなら、浅い関係でいるほうがずっと安心できた。

「ニコイチ」とセットの親密への回避。
それはとても不安定で、ヒリヒリとした、綱渡りのような人間関係だった。


ドラマ『いちばんすきな花』の主な登場人物たちは二十代、三十代。男女間の友情を失ったり、婚約解消に至ったり、母娘の関係に息苦しさを感じたりしている。
もう既に、これらの痛みから遠く離れてしまった私だけれど、どの苦しみも、とてもよく理解できる。

このドラマのメッセージは、一人一人がまず、自分の足で立とうということなのだろう。どんな対人関係であっても、まずは自分自身がしっかりと立っていなければ、決して良好な関係は生まれない。

友人に限らず、恋人や夫婦、親子の関係であっても、それは同じだ。
自分の人生に責任を持ち、他者の人生に過剰に干渉しないで、尊重し合って生きていくこと。そこにはきっと、お互いに対する尊敬が必須なのだ。

当たり前だけど、二人組は一人と一人でできていて、四人組は一人と一人と一人と一人でできている。
適切な「境界線」を引くことは、薄情なことでも、冷酷なことでもない。
自分と相手とを守る、唯一の健全な方法なのだ。


……そんなことを考えていたら、こんな短歌に出会った。

きっぱりと自己と他者との境界に線引きをする白貴船菊

いつも、とても素敵な短歌を詠まれる雪華さんが、何と私のことを、白貴船菊(秋明菊)に例えてくださったのだ。

あまりにも照れ臭いのだけど、もの凄く嬉しかったので、コソっとここで自慢しておきます😍
雪華さん、ありがとうございました🧡


いつまで迷うんだろうか いつかは分かるよな
誰もが一人 全ては一つ

色々な姿や形に 惑わされるけど
いつの日か 全てがかわいく思えるさ
わたしは何になろうか どんな色がいいかな
探しにいくよ 内なる花を

しわしわに萎れた花束 小わきに抱えて
永遠に変わらぬ輝き 探してた
僕らを信じてみた 僕らを感じてた
咲かせにいくよ 内なる花を

Hana/藤井風



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。