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夏の陽炎


夏。眩しい日差しに応えるように空に応えるようにセミが鳴き、休みに入った子どもたちの声が、どこからともなく聞こえてくる。梅雨明けのせいもあり、晴れという事実だけで気持ちがグッとあがる気がする。



……と文字に起こすとあたかも素敵な季節に見えるが、実際はこんな優しいものじゃない。

地面を燃やすように照りつける太陽に、何の迷いも感じさせない青々とした空。どこかジメッとした熱を帯びた風が運ぶのは、この季節独特の開放感。キンキンに冷えた空間から出たときのムワッとした空気は、自分の周りに纏わりつく。

夏は概念として好き。でも生きるうえでは苦手だ、ということをここ数年感じている。

気持ちが落ちていると、このすべての条件が私という存在を溶かしにくる。もういっそのこと本当に溶かしてくれと思うけれど、そうはいかない。中途半端な優しさによって、今日もギリギリ人間の形をして生きている。サンサンと輝く太陽に「苦しい」とか「辛い」と弱音を吐いたら、怒られてしまいそうな気すらする。




2022年をひと言で表すなら、「別れ」と答えるだろう。

戦友であり親友として仲良くしている友達、自分に新しい価値観を与えてくれた配信者さん。そして、私のことを可愛がってくれた祖母。みんな大好きで大切な人たち。

どれもこれも私にとっては一大事で、どうしてそんなことが連続して起きるのか、問いただしたくなる。かといって、毎年1つずつ起きるのも、それはそれで違った地獄を味わうことを思えば、まとめてきてくれたほうが都合がいいのかもしれない。
人生はそんなふうにどっかで帳尻が合わせられているのだろうか。
そんな風に他人事のように考えている自分がいるのも、可笑しな感覚だ。


人間という生き物は失ってから気づくことが多い。正直、祖母が亡くなったのは未だに信じられない。受け入れられない、というより、どこか長期旅行に行ってるような感じで、そのうち帰ってくるような気がしてしまう。亡くなってから3ヶ月目までは節目のタイミングで夢に出てきていたが、最近はめっきり来ない。もう少し気軽に出てきてくれたらと思うけれど、向こうのルールとかあるのかもしれない。
最初に思い出せなくなるのは声だと言われているが、祖母の声をはっきり思い出せることに安堵している。

学生時代は卒業のタイミングで定期的に別れを経験していたけれど、社会人になるとその機会は減る。あるとしたら、自分とウマが合わなかった人との別れで、どこか清々しさすら感じる。

人生における寂しさや別れは一生モノだ。自分の人生において大きな出来事で、離れたいと思っても離れられないのだろう。
好きなアーティストがお休みを発表したとき、それを別の何かで埋めようとした自分がいたけれど、それはできないことを知った。多くの仕事がいくらAIに取って代わると言われていても、その人の存在そのものを代替えすることは不可能なのだ。どこかできっと歪みが生まれてしまうに違いない。

寂しさという穴をいくつも抱えていることを思うと、人間は穴の空いたチーズのような存在に思えて笑ってしまった。たとえチーズのような存在でも、ネコとネズミが仲良く喧嘩してくれたら楽しく過ごせる気がする。


残暑はまだまだ続くものの、日の入りの時間や夜の風から秋を感じる。どんなに嫌なことがあっても確実に季節は進んでいく。朝が来るのが嫌な夜もあるけれど、季節単位の大きな枠で見たら悪い気がしない。
そんな都合のいい解釈をするのはワガママなのかもしれないが、私が生きていくうえでは必要なスキルだと思っておこう。そうしよう。

今日もどこかで生きているあなたへ。
出会ってくれてありがとう。
お疲れさま。またどこかで。


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