見出し画像

この世界で生きている証

パソコンを起動させ、タブを開く。

ドキュメントを立ち上げ、まっしろでまっさらな背景に黒い文字をカタカタと打ち込んでいく。

今日はどんな話に出会うのかな。


***


「言葉を書く仕事がしたい」と思ったあの日。あの頃の私はひどく疲れていた。

まだ寝ぼけている身体になんとか朝ごはんを取り込み、時間よりも少し遅れて到着するバスにハラハラさせられつつ、朝礼に間に合うように駅から会社までの道を走る。慣れないヒールを履いて過ごす日々は、コツコツという軽やかな音を立てていた。新しい生活に食らいついていこうと、一歩ずつ前に進もうとしていた。

定時になったら「何か手伝うことありますか?」と上司に声をかけ、「帰れるときは帰って大丈夫だよ、無理しなくていいからね」という言葉を聞いて会社を後にする。そんな生活は最初だけで、徐々に声をかけて帰ることもなくなった。

バスを待っている列には、学生から高齢の方までさまざまな人がいた。電光掲示板には「5分遅れ」の文字が表示されていたが、バスを待っている表情は穏やかだった。この人たちはどんな1日を過ごしていたのだろうか。私は今日何をしていたのだろうか。

友人の挙げているストーリーには、美味しそうな晩ご飯と高校の友達が載っており、ひどく悲しくなった。そんな私の気持ちを助長するかのように、暗闇に浮かぶ星は綺麗だった。


このままじゃまずいなと思ったのは、半年ほど経った頃だった。

晩ごはんを何日もすっぽかし、体重は5キロほど落ちた。夜になると朝が来るのか怖くなった。一緒に暮らす親には心配されまいと隠した感情が、朝晩の通勤時間に頬をつたって零れ落ちる。そんな日々が2週間ほど続いた。

ドラックストアに立ち寄り、缶チューハイを買い、バイパス道路の上を通る歩道橋でボーっと過ごしていた。私は誰のために、何のために生きているのか。自分の下を通り過ぎる車を見ることで、自分がこの世界で生きていることを実感していた。いや、なんとか自覚させていたんだと思う。


そのあたりで母に思いを打ち明けた。そのあと上司にも伝えた。そこでようやく気づいた。自分がなぜ広告会社に入りたかったのか。広告という媒体を通して、誰かにメッセージを届けたいと思っていた。嬉しいときだけではなく、落ち込んだときにも心があたたかくなるような言葉を。

でも今のままでは届かない。だって、落ち込んだ自分に広告を見る余裕なんてなかったのだから。「見てほしい」という独りよがりな思いは、時に残酷なものなのかもしれない。

***

文章を書く仕事をしていると、「書くことが好きかどうか」という話が時より話題になる。今の仕事を始める前か始めた直後の私なら、即答でYESと答えていた。憧れていた人たちはNOと答えており、自分との感覚の差にズレがあったことを覚えている。

あれから3年。今の私なら何て答えるのだろう。たぶん「書く」という行為は好きじゃないかもしれない。自分の考えを伝えることほど難しいことはないのだから。

じゃあ、なぜ書く仕事をしているのか。それは書いた後の世界に私の好きが待っているからだと思う。

どんな思いを誰に届けたいのか。私と関わってくれた人が少しでも「良かった」と思ってもらえるように、言葉という表現が、実績という数値に変わるように。それが可視化されたとき、心の底から安心する。あぁ、私という存在はちゃんとこの世界で生きている。そう実感できるのだ。


***

来年で社会人5年目を迎える。疲れて周りのことが見えず、独りよがりだったあの頃に比べたら、少しは成長した、と思う。ヒールも履かなくなったし、ストーリーを見て悲しむこともなくなった。あの歩道橋にも随分と足を運んでいない。

もちろん変わってないこともある。相変わらず朝ごはんは何とか食べているし、バスの時間にも翻弄される。並んでいる人の表情を見て、どんな1日を過ごしたか想像することもある。それでも今のほうが随分と心地が良い。大丈夫、ちゃんと前に進んでいるよ。

パソコンを開けばいろんな文章に出会う。自分が知らない業界やジャンルの話だったり、話したことない人の話に向き合ったりもする。この仕事をしていなければ知ることもなかった誰かの人生を。

それは私の生き方をちょっとだけ豊かにしてくれているに違いない。私たちは見ず知らずの人に支えられて生きている。

スニーカーで地面を蹴りながら歩く帰り道。音は鳴らずとも足取りは軽やかだ。日中の寒さに比例して、空気がどんどん澄んでいく。夜空に浮かぶ星が綺麗だ。そう思ったときもまた、この世界で生きていると実感させられるのだ。


はたらくこと、それは私にとってこの世界で生きているという証だ。

読んでいただきありがとうございました◎ いただいたサポートは、自分の「好き」を見つけるために使いたいと思います。