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【エッセイ】帰り着く思い

 人の中に私はいつか帰りたいのだと思ったのは最近のことだ。私はずっと、自分を助ける者は自分でしか有り得ないと思っていた。何の根拠もなく、そう信じていた。自分あってこそ自分は光を見付けられるのだと考えていた。その考えも間違いではないだろう。自分自身というものが確立していてこそ得られるもの、気付けるものも多くあるだろう。だが、長いような短いような自らの人生をふと振り返って思うのは、私は隣に立ってくれる恋人や傍にいてくれる友人の中に自分を見出し帰りたいのだと気が付いた。私の言葉、私の考え、私の思いなどが息づくのは自分の中のみにならず、誰か私を好きでいてくれる人の中にこそあってほしいと思うようになった。何故、そうなったのかは自分でも良く分からない。

 私は自分のことを卑下することが多かった。仕事においてもプライベートにおいても、自分に出来ることは多くなく、私は一体、何において自分を活かすことが出来るのだろうとずっと探し続けて来た。文章を書くことに存在意義を見出しても、揺れる体調の不調や不安定な感情に引っ張られて思うようにそれを実行することが叶わない日々を送って来た。だが、そんなものは甘えであって、本当にそれがしたいのならば何が何でも頑張って実行すべきなのかもしれない。しかし、私は怖かった。そのたびに無理をしていつか立ち上がれなくなる日が来ることが。また、言い換えればきっと私はそこまで頑張る理由を思い付いていなかったのだろう。最低限の努力、最低限の頑張りで良いと、何処かしらに妥協点を見付けてしまってそこに甘んじていたのかもしれない。本当に作家になるという夢を叶えたいのか? その夢は本物なのか? 自問しても答えは出なかった。

 少し前から外出自粛が叫ばれるようになり、私も友人と会わず、不要不急な買い物などは控えるようになった。そんな私を包んだのは有り体に言えば孤独だった。好きな紅茶すら買いに行かなくなった。メールで時々、友人と遣り取りはしていたものの、ちくちくとした不安のようなものがいつも私の中に、傍にあった。今ではチャットが送れるアプリが主流になっているのかもしれないが、私はそれをスマートフォンに入れていなかった。入れる必要もないと思っていた。私がもしそれを使い始めたら、きっと気軽に友人へメッセージを送ってしまうに違いない。日々の喜び、日々の悲しみ。それを書く為に、簡単に送れるツールを手にしたらきっと使ってしまうだろう。それはそれで良いのかもしれないが、私は此処でも怖かった。皆、それぞれに環境があり生活がある。私などに構っている時間など多くない。それを思い知らされるのが怖かった。

 私が本当にしたいことはきっと小説を沢山書くことだろう。そう言い聞かせてパソコンに向かうようにした。けれど、何処か空虚だった。弱音ばかりが心の内側に浮かび続けた。私の書く物語を一体、誰が読んでくれるというのか。黙々と一人でパソコンに向かっている時の、このどうしようもない寂しさはどうしたら良いのか。物語を綴ることでいつかの私の未来に繋がるのだろうか。一つの不安は一つの不安に連鎖し、芋づる式に過去の悲嘆を思い起こさせた。私は誰かから必要とされているのだろうか? そんな考えても仕方のない、寄る辺ない子供が持つような疑惑とでも言うべき不安が私を押し包んでいた。

 私が孤独さや寂しさを感じるのは、私自身が人を遠ざけているのもあるのかもしれないと、ある日に思った。精神的に一人でいれば、喜ぶ時が一人であると同時、悲しむ時も一人だ。誰に喜びを共有出来なくとも、誰にも私の心の内を曝け出して泣いて迷惑を掛けずに済む。私のつらい思いや悲しみを、日々を懸命に生きている誰かにぶつけずに済む。私は泣く時は一人で泣いた方が良い。そして、ひっそりと立ち上がる方が性に合っているのだ。そう思っていた。

 けれども、一体いつまで私は繰り返せば良いのだろう。何度泣き、何度立て直せば良いのか。夢も希望もありはしないと思ったり、努力すればこれからきっと良いことがあると思ったり。その繰り返し、感情の揺り戻しに疲れて来ていることも事実としてあった。だが、弱音を吐き、泣き言を言うほどに私は心底から頑張ったのだろうか。もうこれ以上はないと思うほどに手を伸ばしたのだろうか。その問い掛けには答えが出なかった。

 ある日を境に、私は気の合う友人に積極的に連絡を取るようになった。使っていなかったアプリを新しく使うようにし、日々のささやかな言葉を友人に伝えるようにした。こんな紅茶を淹れたよとか、こんな小説を書こうと思っているよとか、ちょっと落ち込んでしまったとか、そういったことだ。それらについて友人は時間のある時に返事を書いてくれた。時に肯定し、時に叱咤しながら友人は私の傍にいてくれた。そのことがどれほど私の励ましになったのか感謝してもしきれない。

 私は他者を頼ることが本当に怖かった。皆、忙しいから。私に構っている時間などないに等しいに違いない。皆には皆の生活があるのだから。長年の間、そう思って来た。それは一つの事実としてあるとは思う。だが、だからと言って人との繋がりを希薄にする意味はあったのだろうか。拒絶されたとしたらと考えると怖いから、悲しいから。その気持ちは今も私の根底にある。短いメッセージすら、送って良いのだろうかと数分は悩んでいることもある。それでも最終的にそのメッセージを送るのは、私はこの人と繋がっていたい、会話がしたいと考えているからに他ならない。たとえ、元気? という一言ですら、返って来る友人の思いと言葉に祈りのようなものを期待しているのだろう。

 今でも否定されたらという恐怖はあるし、迷惑になるかもしれないという思いもある。しかし、私は好きな人達の中に自らの身を置いていたいのだと自覚した。まだそうなってから日が浅いこともあり、今後の私と友人がどうなって行くのかは分からない。それでも伸ばした手を引くことは、私はもう出来ないだろう。それは友人相手に限った話ではない。自分の持つ夢や日常への期待もそうだ。作家になりたいのならば多くの作品を書いて行きたいし、日常をより良くして行きたいのならばその為の努力もして行きたい。休む時があったとしても、もう一度、もう一度と立ち上がって歩き、手を伸ばす日々にして行きたいと思う。

 私の基盤は此処にあったのだと思う。黙々と孤独に夢に向かって歩いて行ける人もきっといるだろう。だが、私はそうではないようだ。横に繋がる友人の中に身を置き、会話を織り成してこそ、私は夢に向かって行ける。今ではそう信じている。好きな音楽、好きな飲み物、好きな時間の過ごし方。そういったものを、私の好きな人達に伝えながら私は夢を追い掛けたいと切願する。

 私の綴る物語が何処かの誰かに届くと嬉しいと思う。その瞬間、私のこれまでの過ごして来た時間、得て来た感情は全て報われると思う。それは過信なのかもしれない。だが、私の生きて来た道というものは此処に還元されるものだと思っている。私の考えではあるが、作家というものは何もかもを作品に還元出来ると思っている。希望も絶望も、歓喜も悲嘆も、真っ白なページに綴り起こせるのだ。そして、それが誰かの心に届けばこんなに嬉しいことはないだろう。私の夢が叶う時というのは作家になった瞬間なのかもしれない。そしてきっと、私の物語が誰かに届いた瞬間と同義であると思う。この時の為に生きて来たと、私はその時に思うのかもしれない。

 作家になりたい。それは昔からの私の夢である。だが、友人と積極的に連絡を取るようになって思う。私は人の中に帰りたい――人の中にいたいのだと。どんなに気の合う人とでも、たとえ恋人が相手でも上手く行かないことはあるだろう。そんなに単純に人間は出来ていないと思う。これまでの人生がその人の中に詰まっているのだ。好きも嫌いも、喜びも悲しみも、数え切れないくらいの感情と思い出と未来がその人の内側にあるだろう。だから、大切にしたいと思える人に出会えるというのは奇跡的なことなのかもしれない。

 私はこれから、私のことを思ってくれる人達を心から大切にして行きたいと思う。夢を追い掛けることは、つらい時があろうとも楽しかった。それは、きっとこれからも変わらないだろう。そして今後は私の周りの人達に思いを馳せながら夢を追いたいと思う。遠くを見て、近くを見て私はこれからを過ごして行きたい。人に優しくありたい。誰かの力になりたいと切に思う。

 私という存在と私の時間が、何処に流れ着くのかは分からない。様々なことに揺れることはあるだろう。それでも諦めず夢を追い、友人を大切にして、人の中に帰り着けるように緩やかに歩いて行きたいと思う。その思いを此処に残す。

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