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【エッセイ】何処までも

 全てを捨てて逃げ出しても良かった。だけど、何処かで読んだ漫画にあったように月と影と自分は何処までも何処までも付いて来た。太陽のある日も、太陽が隠れる日も。

 私に出来ることは多くなかった。どうしても作家になりたくて狂うように来る日も来る日も小説を書いた。そう表現出来れば、どれほどに良かったか。いつしか私は筆を置く日がとても増えた。ペンを握っても、原稿用紙に向かっても。パソコンに向かっても。何も浮かばない、あるいは浮かんでも降り始めの雨のようにぽつぽつと不意に落ち、蒸発するように消えて行った。更にあるいは家の屋根を飛び越えてはじけて消える、しゃぼん玉のようだった。ほうき星の尻尾を掴みたくて夢の中、草原の中を何処までも何処までも追い掛けて行ってもそれは休むことなく宇宙を星空の中を滑り、地を這う私の手の中には決して収まりはしなかった。

 私だからこそ、書けるものがある。そう信じた。だが、降って行く雨の中、私は傘を差すこともフードを被ることも出来ないまま立ち尽くしていた。

 乗らない電車を呆然と見送り、流れ変わって行く電光掲示板をぼんやりと何時までも何時までも見上げ続けた。そんな私はきっと行き交う人々の邪魔だったに違いない。沢山の人が背の低い私を、立ち尽くす私を鬱陶しがるように見ていた。そして、通り過ぎて行った。

 次こそは急行に乗ろう。そう思って駅のホームで先頭に並ぶ。後ろから突き飛ばされて電車に轢かれることのないよう、緊張して私はそこに立つ。見ていない携帯電話を見る振りをして。聴いていない音楽を聴く振りをしてイヤホンを差して。私は誰にも邪魔されない。そんな顔をして世界で一番の臆病者として、そこに立つ。やがて走り込んで来る電車の音に体を固くし、私は携帯電話を強く握り締める。痛いくらいに。無音のイヤホンを、より深く内耳の奥にまで届けと差す。そして、既に電車に乗っている人を横目に私もその電車に乗り込もうとする。

 だけど、足が動かないのだ。お気に入りの洋服、お気に入りの靴、お気に入りのバッグ。全て全て揃えて来たというのに。もう、行かなければ。この駅を離れなければ。もう、この街にはいられないのだ。いてはいけない。この電車に乗って私は遠い場所に一人で旅立つ。そう決めて、ここまで来たのに――また、乗れなかった。 
 
 電車に乗らない私を人々は避けるようにして追い越して行く。乗り込んで行く。私は異物だ。私はバッグのハンドルを意味もなく持ち直し、引き返す。そんなことを、もう何千回と繰り返したのだろう。その間に世界も人々も時間も変化して行く。四季が何回も何回も巡り、年齢が意味もなく増えて行く。動きづらくなって行く。

 ――せめて、傘は買おう。ある雨の激しい日に入った薬局で私はそう思った。けれど、傘はビニール製の割には高く、八百円だった。私は財布に五百円と五十円の硬貨しか持っていなかった。そうしている間にも傘は売れて行く。にわか雨だった。皆、傘を探しているのだ。持っている人はそれを広げ、持っていない人はそれを買うか持たないままに雨の中を走って行く。私は薬局の軒先で八百円のビニール傘を見つめたまま、動けなかった。傘は買えないのだ。お金が足りないから。それならば雨宿りを? それとも走って帰ろうか。たった二つの選択肢の間を何十回と行き来し、私は力なく雨の降る中を歩き始めた。

 家路はいつもの通りだ。樹形図ではあるまいし、同じ点を通過し同じ通りを辿れば良いのだ。しかし私は遠回りをした。目指す場所も目的もなく。タクシーを望むでもなく。お金がなければ傘一本、買うことも出来ない。空腹のまま、パン一つ買うことも叶わない。真っ直ぐに辿れば良いはずの帰路も、どうしても真っ直ぐに歩けない。ガラパゴスケータイを開いても、何も来ていない。省エネモードになっている携帯電話は薄暗い光を放ち、やがて真っ暗になった。私にはメールの一通も、電話の一つも来ないのだ。私など、何処からも求められていない。そんな被害妄想に近いことを思い悩み、のろのろと雨の中を歩いた。

 書きたい話が沢山あるのに私はどうして書けないのだろう。昔はパソコンもプリンターもなく、ボールペンで原稿用紙にひたすらに熱に浮かされるようにして書いていた。たとえば誰かがそれは稚拙だと笑おうとしても私は一向に構わなかったのだ。無論、売れるものを書きたいという気持ちはあった。けれど、当時の私は自分というものを全て注いでそこに立ち、書いていたから、何処かの誰かの笑い者になろうとも本当に構わなかった。きっといつか遠くの誰かが読んでくれる。きっと、いつか。そう信じて書いていた。

 何故、私は傘も持たずに一人で書いているのだろう。風邪を引いても書いているのだろう。そして何故、書けなくなったのだろう。風邪が肺炎になったのだろうか。それとも、何か他の。何か、他の要因が?

 いつかに見たほうき星の尻尾の輝きを私は今もしっかりと覚えている。周りの星の光の隙間を縫うようにして遠く遠くへ流れ泳いで行く、ほうき星。私は何処までも何処までも追い掛けていたかった。追い掛けていれば、良かったのに。

 髪の先から雨の雫が落ちるくらいに濡れた私はいつもの自分のマンションの前にいた。階段を上がって自分の家の扉の前に立つ。鍵を差し込む瞬間、私は僅かに緊張する。鍵を開けて中に入り、鍵を閉める。たった一人だけの私の家。

 真冬の家の中は氷室のように冷え切っていた。真っ暗な部屋の中、開けたままの遮光カーテンが申し訳なさそうにレールの端にある。白いはずのレースのカーテンは薄汚れていた。その汚れが分かるのは、私がパソコンを点けたままにして行ったからだった。雨と冬の冷気で冷えた体をそのままにパソコンの前に座ると、モニターの光が皓々と私を照らした。それは、お前のやりたいことは何だと問い掛ける光であった。

 少しの間、真っ白なワードの画面を見つめた後、私は髪を結んだ。両手の間から雨の雫が落ちた。そして冷えたキーボードに触れる。お前のやりたいことはこれだろうと、誰か――あるいは自分――が言い、私の心臓を掴んだ気がした。

 モニターの光は私の太陽の光だった。どれだけの時間が過ぎようとも。四季がどれほど巡ろうとも。私の帰る場所は此処である。私は今一度、自分に向き直る。

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