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【エッセイ】時間の共有

 本来、基本的に自分の中にしか本当の自分はいないだろう。だが、私は不意に自分自身に連続性を見出せなくなる時があった。立ち止まり振り返った時、この数年の自分は何処にいるのだろうと分からなくなる時があった。そんな折、私は友人の中に自分の存在を見出す。友人の中にいる私という存在を見付けた時、私はとても嬉しくなるのだ。

 人が人と繋がることに理由などないのかもしれない。それは偶然かもしれないし必然かもしれない。運命、なのかもしれない。私は寂しさから人を好きになったこともある。すれ違っただけの人に心と体温を求め、それを永遠のものにしようと思ったこともある。そのことを友人に咎められたこともある。私自身、自分が精神的に自立していないと友人関係も恋愛関係もうまく行かないのかもしれないと思ったこともある。だが、そんな理屈では私はもう納得出来ない所まで来てしまっていた。

 二〇二〇年の春頃から外出自粛を求められるようになり、私も例に洩れず不要不急の外出をずっと控えていた。友人と会う約束は全て延期した。それは私の寂しさに加速を掛けたが、仕方のないことだと思った。

 私は一人暮らしを粛々とこなした。おそらくほとんどの人が利用しているであろう通話やチャットが出来るアプリを私はスマートフォンに入れておらず、友人との連絡は私は主にメールで取っていた。そこに不満はなかった。だが、友人と半年近く会っていないせいなのか、突き上げるような寂しさが私を襲う日があった。それでも、皆は忙しいのだからと思って私は自分のことをし続けた。しかし、趣味ですら私を満たさなかった。空虚だった。

 私は通話アプリを入れて昔の友人に久しぶりに連絡を取ってみた。その友人と話すのは数年ぶりだった。もう私のことなど迷惑かもしれない、そんな私の思いを払拭するように友人は私に話し掛け、私の話を聞いてくれた。話の内容は趣味のことや日常のささやかなことや以前の思い出話だった。どれも他愛ないものだ。だが、その会話の時間は確かに私に安堵をもたらし、明日への力をくれた。

 私は自分の夢を叶えれば幸せになれると根拠もなく信じていた。その為に努力して来たつもりだった。しかし、未だ夢の叶わない道のりの中で、私が求めたのは人だった。私は友人達と話すことで、ようやく自分の輪郭を取り戻せた思いでいた。

 私は知らず人を、友人を自分から遠ざけていたのかもしれない。十年以上前から、皆は忙しいから私に構っている時間も余裕もないという思いが私の中にあった。皆、優先するもの、守るべきものがあるのだと。それは私もそうかもしれないのに、他者がそうであることが私はとてつもなく悲しかった。だから人に期待しないようになったのだろうと思う。

 今の私に孤独ではないという思いがあるわけではない。本質的に人は一人だという思いもある。けれども、友人と会話をする日々を日常に取り入れられたおかげで、私はいつもひとりぼっちだという気持ちからは逃れることが出来た。根本的に何かが変わったわけではないかもしれない。それでも私は今の毎日をこれからも続けて行きたい、失いたくないという強い気持ちがある。

 私は、きっと羨んでいたのだろう。メールやチャットや通話で簡単に誰かと繋がることの出来る人達のことを。そして思っていたはずだ。私はもう、寂しさから人を求めることはしないと。私には夢があり、それを叶えれば全て報われるのだと。だが、今では思う。夢を追い続けながら、私は隣にいる友人と一緒にいたいと。歩いている道が違い、追い求める夢が違い、過ごす日常が違っても。触れ合えるのは、ほんの一瞬の時間なのだとしても。私は私の周りにいる人達を大切にしたいと思う。誰かの力になれる人になりたいと思う。人に優しくありたいと思う。

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