『人魚のともだち』試し読み(百合アンソロジー『ファムファタールズ』寄稿作品)

クソデカ感情百合小説アンソロジー『ファムファタールズ』様に寄稿した作品の試し読みです。
2023年11月11日文学フリマ東京にて発行されます。
アンソロジーの詳細は下記からどうぞ。
https://twitter.com/kusodeka_anthol

人魚のともだち

 白い森に、人魚がいた。
 真っ白な雪が降りそそぐ中、半分凍った川の中で細い体を震わせている。
「ミナ。今動いたらだめ」
 川岸から、幼い少女の声がした。年は十歳前後といったところだ。少女は白いコートにマフラーと帽子、手袋を身につけ、絵筆を手にしている。イスに腰掛ける彼女の膝には毛布もあった。
「今、ちょうど進み始めたところなの。今動いたら台無しになっちゃう。もう少し我慢してて」
 少女は人魚に語りかける。まるで命令するかのように。少女の息は白いが、頬は上気して紅色に染まっていた。
 一方、人魚は上半身に薄い衣を身につけただけの姿でいた。尾ひれは凍った川の中だ。若い娘のようだが、顔は青白く、体の震えは止む気配がない。唇は数時間前から紫のままだった。
「もう少し……あともう少しなのね?」
 ミナと呼ばれた人魚は、苦しそうに息をしながらそう尋ねた。呼吸の度に、薄い衣から透ける丸みを帯びた胸が上下する。真っ白な鎖骨の下からは、かすかに血がにじんでいた。
 それでもミナはできるだけ動かないようにと、冷たい川の中で背を伸ばした。
「そうだよ。あともう少し。これが終わったら、一緒に休憩しよう」
「ねえマリ。その言葉、信じてもいいのよね?」
「もちろんだよ。だってわたしたち、友達なんだから」
 マリはスケッチブックに目を落としたままそう答えた。彼女の手は絶えず筆を動かしている。きっと、できるだけ早く終わらせようと急いでくれているのだ。ミナはそう信じることにした。

 雪が降り続く川沿いには、彼女たち二人の姿しかない。どこを見渡しても、白と灰色の寒々しい景色ばかりだ。
 しかしミナはこの風景の向こうに、数ヶ月前の、真夏の記憶を重ねていた。

「わ、ミナ、動いちゃだめだってば!」
 真夏の海でマリが声を上げた。どこまでも広がる青と碧の海。人気のない白い砂浜で、幼いマリはスケッチブックを広げていた。右手に鉛筆を持ち、必死に何かを描いている。
「動いてなんていないわよ」
 ミナは海から突き出た岩に腰掛け、マリに反論した。もう十分以上、ミナはこうして岩に座っている。じっとしていることにも疲れてきて、少しだけ背を伸ばしたところだった。
「絵のモデルがこんなに疲れることだなんて思わなかったわ」
 ミナはうんと腕を伸ばして、はあ、と息をついた。マリに「ちょっとだけそこに座っていて」と言われて、ミナはつい安請け合いしてしまったのだ。動かないということが、こんなに大変だとは思わなかった。ミナは人魚らしい尾ひれをバタバタさせて、こわばっていた体をほぐした。そうしている間にも、マリは名残惜しそうに「あー……」とつぶやいている。
「マリも、少し休憩しましょうよ。そんなに難しい顔をしていたら、疲れちゃうでしょう?」
「でも、まだ全然進んでなくて……」
 マリがスケッチブックに目を落とす。

「ミナ! ミナのおかげで、絵のコンクールで一等賞を取れたんだよ!」
 マリは頬を赤くして、一息にそう言った。よほどうれしくてたまらないのだろう、興奮気味の彼女の目には涙が光っている。息も荒く、顔から両耳まで赤く染まっていた。秋の海風は少し冷たかったが、今のマリにはまったく感じられなかっただろう。
「おめでとう、マリ。私も少しは役に立てた?」
「うん、もちろん。ミナがモデルになってくれたおかげだよ」
 マリは紅潮したままの顔で笑う。その姿にミナはどきりとした。
「それでね、ミナ」
 次の瞬間、マリの声の質が変わる。その声にさえミナはうっとりとしてしまい、マリの大きな変化を見逃した。後戻りのできない、大きな、大きな、変化を。
「わたし、これから秋のコンクールに参加することになったの。また絵のモデルになってくれないかな? 次はね、紅葉の中にいるミナを描きたいって思ってるの。だから、うちに来て」
「マリの家に?」
 まだ陶酔の中にいるミナは気がつかない。マリの心が、もうあの夏とは違うものになっていることに。
「うん。パパに頼んで、大きな水槽を借りたから。ミナはその中に入って、うちまで来て。今日からわたしの家で一緒に暮らそう」
 ――――一緒に、暮らす?
 あまりにも突然の提案に、ミナは理解が追いつかなかった。しかしマリの言うことは嘘ではないらしい。なぜなら彼女の後ろには見知らぬ人間が何人も立っていて、まるで魚を捕まえるかのように網を広げていたからだ。

「マリ! あなたのこと、信じてもいいのよね!?」
 ミナは大声で叫んだ。今まで、こんなに必死に何かを叫んだことなどなかった。
 「作業」を邪魔しないためなのか、マリはミナから距離を取っている。いつの間にか頬の紅潮は消え、見覚えのない白い顔が屈託のない笑みを浮かべていた。
「もちろんだよ。だってわたしたち、友達なんだから」
「友達……」
 そうだ。自分たちは「友達」。あの日、そう約束したではないか。
 ミナは自分の中の警戒心を無理矢理に押さえつけた。そして、網をかけようとする人間たちの動きに従った。マリを信じ、これからも友達でいるためにはこれしかない。
「大丈夫だよ、ミナ。みんな優しいよ。何にも怖くないよ」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?