笑い声が大きい人の隣に座りたくない

 生放送の賞レースは見ないが、お笑い芸人のYoutubeなどを見ないわけではない。生放送は油断できない、というのは理由の一つ。
 いわば、巻き戻しが出来ないという意味だ。
 自動字幕の技術は発達してきたが、視界の邪魔。デザインも練られたテロップが出るわけでもない。そうなると必然的に一挙手一投足、大味なボケやらツッコミやら些細な言葉尻も見逃すまい聞き逃すまいなんて面倒くさい。メチャクチャ滑舌が良かったり、声質が良かったりする人もいるけど、なんだか漫才以外のところに感心してしまってそれはそれで集中できない。結局変な動きで笑いを取る芸人が分かりやすく面白いと感じてしまう。
 M-1決勝の会場には行きたくない。面白いに決まってるし、テレビで見ていても会場全体が笑いに包まれているから、うるさい。現地だともっとうるさいだろう。僕は次の言葉を聞き逃したくないだけなんだ。今、かっこいいこと言った。さておき、聞き取りにくくても笑えるのなら、それは雰囲気で面白がってるだけなんじゃない? 暴論。でも無観客で笑い声が全く入らないのは味気なく思える。不思議なもんだけど、これって実は周りが笑っているから自分も手放しで安心して笑えるみたいな同調圧力じみた匂いがするな。危険か?
 過去にわりかし観劇をしていたのだが、アマチュア劇団、社会人劇団にもいわばミュージカルのように、歌を差し込む作品が結構あることに驚いた。それに対して僕は過激に否定派だった。理由として、所詮小劇場ホールの音響で、歌詞なんて聞き取れると思うなよって気持ちが強くあったからだ。歌を歌いたければ別に構わないが、せめて歌詞の意味が理解できるようにはしてもらいたい。物語の総括としての歌なら、ちゃんと客にも噛み締めさせろ。劇中のストーリーを歌で再度なぞるだけなら、時間稼ぎも大概にしろ。
 ポエトリースラムというイベントがあって、一度だけ見に行ったことがある。これはポエトリーリーディングという、ラップのような詩の朗読のような競技で、世界大会もある。各々のバックボーンや日々の鬱憤や社会へのメッセージなど、見ていて心が動かされる非常に面白いものだった。僕は最前列に座って、競技者のポエトリーを一言一句聞き逃すまいと集中していた。
 ある男が予選で、下ネタオンパレードのポエトリーを披露した。これも一つのパフォーマンスだ。とにかくお下劣だったが、会場は笑いに包まれながらも、綺麗に韻を踏む興味深いものだった。ステージを右へ左へと歩き回り、最前列に座る僕に向かって下ネタを捲し立てた。今でも覚えているが、僕は彼を真顔で睨みつけていたのであろう。一瞬彼の顔が気不味そうに歪んだのを忘れはしない。でも言い訳をしたい。僕は決して不愉快に思ったわけじゃない。集中して聴いていただけなんだ。笑ってしまえば、自分の笑い声で耳が塞がれてしまう。だったら笑いを堪えるしかないじゃないか。
 何度も見たものなら、安心して笑える。新鮮味はもはやないけれど、ここが面白いところなんだよなって予測して笑ってしまう。でもこれは果たして、お笑いを楽しんでいることになるのだろうか。楽しんでいるというよりは、日常の一部なのかもしれないな。今、かっこいいこと言った。

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