ぬくもりが消える頃

突然私のとなりの席に焼酎のソーダ割りが入ったグラスが置かれた。グラスから離れるその手を見上げると、奥で作業をしていたはずの寿司屋の息子さんが、優しくほほえみながら「お父さんの分」と言って厨房に帰っていった。

プロフェッショナルゆえに高圧的で頑固であることで有名な大将が営むその寿司屋は、父が私達家族を連れて行くのを長年渋っていた店だった。なんと言っても高級で、寿司を知らない私達にはもったいないと拒まれてきた。

私達が来るもっと前から、父はこの店に来ていた。大将は私の知らない父親をたくさん見てきただろうな。同じ寿司職人である父は、頑固で職人肌な大将の仕事ぶりを見ながら、芸術のように命が吹き込まれた大将の作品を食べ、たくさんの焼酎のグラスを空けていただろう。とびきりの酒豪な父は、酒に限界がなく、いつも信じられないほどの量を飲む。飲みきった音を鳴らす氷の音が、今でもすぐ耳元で聞こえる。

大将の息子と親交がある、兄のたっての希望で、このお店で兄の誕生日を祝うようになって四年になる。頑固な大将が、カウンター越しにいつも気さくに家族の写真を撮ってくれる。最後の寿司を握り終えたあとの大将は、少し朗らかになることに今年初めて気がついた。奥にいる息子さんのことを見守る優しい目線にも。

食事が終わる頃には店の電気を消して、大将とよく似た顔の息子さんが兄の誕生日祝いのケーキを持って出てきてくれる。これももう四回目になるので、そろそろ申し訳ない気持ちにもなる。

ケーキを持った兄を囲んで撮ってもらうのが恒例になった今年の家族写真には、もう四人しか写らない。いつまでたっても減らない焼酎のソーダ割りのグラスを見て、そういえば父が居ないことを気づかされ、単純に悲しくなる。

父が大好きだったこの店の蒸し穴子を食べて、父の代わりにゆっくり噛みしめ、焼酎を口に含み、頬に流れる涙とともに深く飲み込む。届け、この素晴らしい味よ、この命ある世界を。悔しく思え。少しくらい。

#エッセイ

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UNBILICAL

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