身体をなんとかする

手首を反らすと、私の血が規則正しく薄い皮膚を押し上げているのが分かった。さらに反らすと皮膚が裂けて血が吹き出しそうなほど血管は力強く脈打ち、まるで手首に何か違う生き物でも飼っているような気分になった。自分の身体は本当によく頑張っている。生きることや死ぬことはそんなに大切なことだとは思わないけれど、今この瞬間は自分の身体がこんなに健気に頑張っているのだから、わざわざ捨てようとか傷つけようとかを思うのは間違っている気がする。

私は、身体と精神は別ものだと思うが、身体は自分のものだと思って生きている。なんとかして動かしているのも私、身体が負担に押しつぶされないようにケアするのも私、身体が壊れないように気をつけるのも私。身体が壊れると自分の望む生活ができなくなるから、身体のご機嫌を伺いながら生きる。

ただ、身体はなんとかするものだとも思っている。私は、自分は風邪をひかないと他人に豪語している。実際には悪寒に苦しんで死にそうになったり、喉が腫れて水も飲めない時があったりするが、「風邪をひかない」と口に出して言うことで、自己暗示として、身体に伝わるように、身体にそう動いてもらえるように言いきかせている。

また、「風邪をひいた」とつぶやくことは、自分の管理不足を露呈することと同じだと思っている。元プロゴルファーの古閑美保が、風邪をひくということは、あらゆるウイルスの侵入を許した自分の精神の弱さのせいだと言っていたのをテレビで見て、まさにその通りだと思った。だから手洗いとうがいと睡眠と栄養バランスをとった食事と、あとは風邪をひいてたまるかという気力も大切で、私はこうして「風邪をひかない自分」を作り出している。

だからこそ、体調の管理が出来ない人を見ていると不思議に思う。どれくらい痛いとか辛いとかは分かり合えない事だから、なぜなんとかしようとしないのか。心次第で身体は良くも悪くも思い通りに動くものだ。そう思っていた。

しかし、先日、解剖学者である養老孟司の「身体巡礼」という本を読んだときに、身体をなんとかするという考え方は、実に現代的で、もしかすると、ときに危うく私の心をも道連れに滅ぼしていくかもしれないということを知った。身体をなんとかするという考え方は、大人からしたら、高校生が歳をとって老けるまでに40〜50歳くらいで早急に死にたいと言っているのを聞いて、どれだけ都合の良い考えをしてるんだと呆れる時の気持ちと一緒なのだろう。

「現代では身体はほぼ完全に『なんとかするもの』の範疇に入った。(中略)中央にある現代医療は、むろん意識の支配下に置かれている。タバコや体罰がいわば問答無用に近く『悪』とされるのは、そこに意識の支配の『破れ』が垣間見えるからである」養老孟司,新潮社,2014

ここでは、コントロール可能な我々の身体が、もし制御不明になったときには、その持ち主である自分の責任として追求することができる時代であることが述べられているように思う。タバコが自他共に身体に悪いことをわかっていながら、それでも吸い続ける人を、「健康な身体を守るという責任を手放した」から、その罪を正当に糾弾できるということだ。

しかし、タバコは身体にも周囲にも悪いけど、さっさと病気になって死んだ方が国のためだと言うネットの記事も読んだ。そもそも自分にとって健康とは、幸せとは、どういう状態のことを指すのかを社会が知らないまま、新しい知識を得るたびにまた一つ身体のことを理解したつもりでいる。

身体はしばしば予測できず、ましてやコントロールできない。人の身体とは自然そのものであり、海や風、大地が決して我々の思い通りにならないように、身体も「なんとかする」対象ではないのだ。いつか私の中の身体への意識の支配が、自然の脅威に晒されて、なんともならない局面を迎えたとき、私の身体は私のものではなくなる気がする。もはや自分のものではなくなる身体を、私はどのように捉えるだろう。生きるとは、大切するとは、自分とは何なんだろうかと、また一から振り出しに戻ってしまうだろう。

25年かけて歩んできた証が、この身体に刻まれているのだろう。私の揺れ動く魂だけでは、きっと自分なんてあやふやな存在でしかない。存在するのかも分からない。自分の手に届く範囲だけが自分のものという考えを辞めよう。生きるということは、自分とは、今まで出会った人の破片の集合体であり、誰かの一部になるということだ。今はそう思う。

#エッセイ



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