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桜木花道によろしく①

 掌から放たれるボールは、無回転だ。
 茶色い革に刻まれた幾本もの黒い轍が、moltenのロゴプリントが、革の細かな皺までもが、コートの上からよく見える。全幅の信頼なのか、単なる他力本願なのか情けなく思考が停止してしまっているのか、呑気な気分でいつも見上げる。美しい放物線に、いつも見惚れる。
 時が止まる。留まる。完璧なロングシュートは、スリーポイントは、体育館内に響き渡っている絶叫に近い声援をもたやすく鎮めてしまう、そういう不思議な魔力を秘めている。一旦掌から放たれてしまえば何人たりとも邪魔することのできない不可侵性を帯びてしまい、誰も手出しできず、味方でなくても、言葉もなく眺めている以外に術はない。
 利己がぶつかり合う試合の中に訪れる、とても穏やかひとときだ。
 思い出したかのように、息でも吹き返したかのように、かかりの悪かったエンジンが突然いなないたかのように、眼下で待ち構えているリングに牙を剥いて襲いかかっていくかのように、突如として、山頂のやや手前あたりから急激に回転しはじめる。
 強烈な渦がネットを巻き込む小気味よい音が、やけに大きく鼓膜を揺らす。撃つ前から用意していたのであろう彼のガッツポーズに、一緒になって歓喜する。俺の、俺たちの、試合での存在理由はなんなんだろうか。五人いなければならないというルールを便宜上満たすための人数合わせなのか、他に突出したレベルの部員がいない中でもかろうじて上澄みに位置できているからなのだろうか、それとも。
 スリーポイントラインからのフェイクに、ディフェンスの足の裏が宙に浮いた。ドリブル。知っている。幾度となく、痛いほど俺は思い知らされている。あいつの、シュートフェイントからのドライブインは異常に速い。深々と、一歩目でサイドを抉られる。吹っ飛んだ。縦に引っ掛かった体勢のままその突進についていこうとした相手の6番が、背後に向かってバランスを崩して、尻餅をついた。コートに汗まみれのユニフォームを滑らせ、勢い余って背中まで床に付けそうになり、恥ずかしいらしくて急いで立ちあがる。通称アンクルブレイク。一対一の駆け引きで、オフェンスが圧倒的勝利をおさめた際にまれに起きる、ディフェンス側の現象だ。
 俺には、そんな凄い切り返しのスピードはない。シュートフェイクで腰を浮かさせてしまうほどの演技力もないし、実際に撃ちもしないのにそんな動作を繰り出すことにいまだに気恥ずかしさを感じてしまって思い切ってはやれないし、相手に通用しなかった時の滑稽さを想像するとなおさら委縮してしまう始末だし、そもそも3Pが全然入らない。届かない。あいつみたいに高く跳べない。実績もない。
 もしもフェイクに乗ってこなかったのなら、あいつは罠を罠ではないようにする直前の方向転換も器用にでき、流れるようなフォームをそのまま維持してゴールを決めてしまう。敵からしたら、至極厄介なプレイヤーだ。
 事前に描いた青写真をなぞっているのではなく、ディフェンダーの反応に合わせて瞬時に新しい未来を築き上げているのかもしれない。
 マッチアップとせめぎ合う。意地になって止めにくる相手をたやすく抜き去り、ボードに優しく反射させる。距離感に困る。下がった守備の位置を見測って躊躇なく遠くから放ると、もはや喜びの表情もこぼさず、淡々とバックコートへ戻っていく。
 バスケを始めてから、ずっと一対一を眺めている。中一どころか、もっと以前から彼の後ばかりを追っている気がする。
 バスケットボールは、小学校単位での全国大会は設けられてはいない。ミニバスと呼ばれるクラブ組織だけがその舞台を用意していて、より高いレベルで戦おうという小学校であれば学校内にクラブチームを作って参戦したりもしている。
 そして俺たちの街には、全国大会出場が必然となっている名門ミニバスチームが存在する。そこに所属して全国を経験してきた選手たちがそれぞれの中学校で早くからレギュラーを獲得し、三年時には俺たちの世代を席巻する。ミニバスのメンバーが多く進学した先が、それから一年の勢力図を新たに塗り替えていくことになる。
 そしてここ何年かは、代によって強さにバラツキはあるけれど、兜城中学の時代がつづいている。別にキラ星のごとくその地域にだけバスケットボールプレイヤーの才能が誕生しているからではなく、ミニバスの練習場である市の体育館に学区が近いため習いに行く生徒が多いから、多分そういう立地的な理由だと思う。なんであれ、問答無用に強い。毎年スタメン五人の大半がクラブ出身者で占められているのだから、質が悪い。
 だから一対一に抜群の強さを誇っていてもそういう強豪校相手にはさすがに攻めあぐねる時もあって、役に立たない俺だってなんとか戦力になりたいから彼に張り付いたディフェンスを、相手の左側からスクリーンアウトで引っ掛けにいく。右四十五度。左横に壁として大股を開く。スイッチ。マンツーマンを伝統とし、攻撃的ディフェンスを旨とする市内の王者たちは素早く意思疎通して受け持つ相手をチェンジした。右にドリブルしはじめる。壁になってディフェンスの対応を阻止した俺は身体を反転させて、さっきまで一線にマッチアップしていた選手を背中で抑え、ゴールに向かって走り出した。障害となって引っ掛けた、俺を守る役割に変わった相手は斜め後ろから追ってきて、直前まで俺についていたディフェンスは最要注意人物の思惑を止めにいく。別に大層な攪乱ではなく、担当をスイッチする瞬間のもたつきを狙った、基本的なスクリーンプレイだ。ヘイ。ディフェンスを背にして、左手を前に出し、ボールを要求した。大声のせいで、一線に変わったディフェンスがわずかに釣られる。パス、ドライブ、3Pも警戒しなければならず、俺たち二人の、どちらにも対応できる微妙な距離を取らざるを得ない。俗にいう、二線というやつだ。
 左からの、ゴール下へのカバーは遅れていた。球が来れば、もしかしたらレイアップシュートをすんなり決められるかもしれない。俺が2点獲れるかもしれない。でも、多分、パスは来ない。絶対の自信がそうさせる、そう思わせる。別に渡されても困る。残念ながら、こんな強いチームの鉄壁のディフェンスを翻弄できるような類まれなる技術はない。コースを塞がれ、潰されるか、でなくても、ビビッてミスるのが関の山だ。体育館の、二階の窓が眩しかった。その、ベランダ程度にしか張り出していない狭い足場にまで観客が詰めかけていて、真っ黒い全身の輪郭を黄色い日射しが縁取りしていた。丸い影が光を切り取る。人影と交わり、消え、現れて、再び茶色く色を帯びる。俺を観に来ているわけではない。俺以外の三人でもない。この空間を埋め尽くしている無数の群衆の目的は、今年全国大会出場を本気で目指している対戦中学と、楠だ。

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