見出し画像

旗手②

 社長と横並びになり、無言のままかすかに後ずさりした。段取りが済むまでのわずかな時間、あたりを見渡して、なじみ深くなりつつある工場のレイアウトを、脳内に叩き込むフリをする。
 碁盤に似た鉄の枠めがけて、こんもりとした鉄の湯が流れ込む。粘りが強い橙の濃淡が砂型に空いた穴の中へと注がれていき、ときおり雪の結晶のような火の粉が舞い上がる。独特の、薬品が灼ける臭いが鼻腔を刺激する。変に酸っぱく、一度嗅いだら忘れない。足元はまんべんなく黒い砂が敷かれていて、安全靴の底がするすると滑り、とても歩きにくく、下手に蹴り上げてしまうと靴の中に入ってきてしまって不快で仕方がない。
 そこかしこで、作業員が手仕事にはげむ姿がちらつく。グラインダーの回転音がはじまる。直後、金属が削れていく痛々しい悲鳴が加わる。離れる。削れる。延々と、泣きつづける。ここからは小粒な背中が見えるだけで手元はわからないけれど耳障りな音に意識を集中しているだけで、ディスクと工作物が接触する刻々が、放射状に横に飛び散っていく鉄の粉までもが、鮮やかに思い描ける。
 ひとりの作業員が天井からぶら下がっている黒いコードをおおまかに握り、豚革の手袋を地面に向けて滑らせていく。顔は大型の鋳物を固定したスリングベルトを見つめるのみで、掌のなぞっていく先がコードの先端についているペンダントスイッチにたどり着くと、右手の指をうごめかせて手繰り寄せた。それには一切目もくれず、細長くてプラスティックでできているその操縦機を左に掴み直し、親指でボタンを押した。若干、ワイヤーが巻き上がった。
 釣られるように、頭上を見上げた。
 硬質な一本が、垂直に風景を分断していた。
 それからボタンを小刻みに何回も軽く押して、無骨なフックを微妙に揚げていき、引っ掛けたベルトに遊びがなくなると掌で叩いてテンションを確かめる。洩れなく張り手を喰らわせる。
 ひと気がないかを見回して、再び、慎重に、ボタンを押した。浮いた。かすかに揺れ、すぐにおさまる。腰をかがめて、いびつな底に通したベルトの位置を覗き込む。かしげた上半身を逆にかたむけつつ、数歩ずれ、ベルトを叩いたり振って確認する。重みが新たな均衡を求めることにより裏側で拘束がずれてしまう危険はないらしく、施した玉掛けに問題がないとわかると一気に長押しして、膝の高さまで引き上げた。上目遣いであたりに首をふると軍艦のような重量物を吊ったクレーンが動き出し、ほぼ同じタイミングで、周囲に安全を喚起するかろやかな曲が流れはじめた。
 荷物の動きに合わせて常にそばに寄り添い、注意を怠らず、用心深くペンダントスイッチを操作するヘルメット姿が近づいてくる。人の声は多くない。指揮する声もない。手順を知り尽くした作業員たちが言葉もなく意思を疎通していて、各々の持ち場を切り盛りしている。案外、静か。比較的、穏健。しかし耳を澄ますと、思いのほか鎮まっている場内のどこかから、そして至る所から、けれども具体的にどことは断定できないどこかから、底冷えするような、不穏がひたひたと距離を詰めてくるような、集塵機の低いうねりがずっと鼓膜を揺らしてくる。
 満たす空気は、所々ほのかに煙っている。会社に帰り、濡らしたタオルで首回りを拭けば黒い汚れがついてくるくらいだけど何度か通っているうちにそんなもんだと割り切れるし、長く居れば気にも留めなくなる。むしろ、この程度のことで過敏に反応していては仕事にならない。粉塵が窓から差し込む光を棒にして存在を誇示してきても、関心すら抱かない。
 鋳造所に設置されている一連の機械はすべてシーケンサと呼ばれるプログラムで管理されており、それが制御盤内から信号を送ることによって自動で砂を用意してくれる。その砂で型を造り、注湯し、破壊して、ふたたび型に使えるように再生機に投入される。一定量貯めた砂を回転させ、一粒一粒の表面をコーティングしている硬化剤をお互いで研磨して落とし、また違う型へと再利用する。
 平穏でいたいのに、不満気な面持ちが視界に入る。一向に目が合わなくても諦めてくれず、しきりにふりかえってくるのが癪に障る。まだお小言が言い足りないらしく、執拗な眼差しを感じたので、身体ごとそっぽを向いた。
 背後の壁沿いに視線を配らせる。実際は時間稼ぎだけど、知識の復習を兼ねる。初めて訪問した時にはまるで目に留まらなかった設備の細部が、今では隅々まで把握できている。一見、置いてある機械が非常に少なく伽藍堂に思えてしまう場内でも、注意して観察してみると数々の鉄管が、実は建屋を網羅している。
 飾りではない、大事な血管だ。
 血流だ。
 蘇った砂は空気輸送機を経て地を這った配管内を走り出し、人々の出入口をふさがないように輪郭をなぞり跳ね上がって、数メートル頭上でさらに横に折れて外壁の内側に巻きついていく。ところどころにブースターが設置されており、計算されたその場所で高圧エアを噴射して、へたれ出した砂の流れにもうひと踏ん張りの加速をうながし、目的地まで送り届ける。
 最後は下に首を垂らして、ミキサーの上部に載せられたタンクへと貯まっていく。そこから本体に適宜投入されてたくましい幹の途中から一本だけ育った枝みたいに突き出しているアームの内部を進み、ノズルが添加する薬剤と混錬されて、先端の吐出口から鉄の枠内に落ちていく。ちょうど中央に位置する、砂型に空洞をつくるための発泡スチロールを飲み込んでいく。純白の中子が蛇口から噴き出すかのような砂に埋もれていき、精巧に細工されている複雑なかたちが隠れていって、いつしか増した砂位に沈んで消える。真っ黒い平面と化す。そして時間の経過とともに砂は自ら硬まっていき、びくともしない型となる。
 この工場では、流し込む鉄の湯の熱で中子を融かして消失させることにより、発泡スチロールが陣取っていた空間が、まんまと鋳物に入れ替わるという方式を採っている。
 始まる。
 いまさら、驚いて、その場で跳び上がってしまうような醜態はさらさない。
 比重が高い金属同士の跳ね返ってきそうなほどに凄まじい衝突の余韻にふりかえると、全長が五メートルはある、畏れを抱いてしまいそうにそびえ立っている観音開きの門が口を閉ざしていた。巨大な銀色の箱を仰ぎ見た。程なくして投射ユニットのモータが起動し、わずかな間の後、細かいショット玉が供給されていくとてもさわやかなさえずりが聞こえだした。やがて、庫内で鉄の嵐が吹き荒れはじめる。
 一昨日の土曜日にショットブラストの据付工事が無事完了し、週明けの今日が実際の稼働日だった。点検や微調整の必要があり、一日立ち会っているが特に不具合も起きず、機械は順調そのものだった。
 ショットブラストとは、扇風機のような内部構造をしている投射ユニットの中にビーズくらいの鉄球を流し込み、高速回転する羽根の上に載せ、遠心力を利用して投げ出し、無限と言い表しても過言ではない量のショット玉を鋳物の表面にぶつける機械のことだ。砂型から取り出した金属部品の縁に残ったバリと呼ばれる不要物を撃ち砕いたり、表面にこびりついた砂を落としたり、本体自体を鍛えるためにも用いられる。
 一応各所の電流値も安定しているけど、まだ、安心はできない。今日が良くてもメーカーが帰ったら不具合勃発なんていうパターンは、実は多い。ちょうど手前に立った、居るだけでうるさく感じてしまう人を、風景の一部と考える。そういう無関心で、対処する。
 上目遣いで直視してくる、老いた皮膚とかだいぶ後退してきた生え際を、景色に張り付いた模様と見なした。
 荒い手招きに反抗して、若干うつむきつつ今の距離を保った。
 偉そうなその凝視が、部下が素直に従ってダッシュしてくるという目算で外されたその隙を突き、すり足で間隔を広げた。背中が、柔らかい層にぶつかった。うなじにも生温かい空気を感じ、斜め後ろに少しだけ首をかしげると、左右に長く軒を連ねている堆い鉄の塔の群れがすぐそこまで迫っていた。前を見、最初の立ち位置と比べると結構遠くまで来ていたので、自分の本能の拒絶度合いを鼻で笑った。でも頑として動かず、まだ熱を帯びている砂型で、冬でもないから大して嬉しくもない暖をとり、またひとつがフォークリフトで端に陳列される過程をながめた。
 完璧。
 思わず、自画自賛したくなる。
 まず、鋳物は置かれる。融けた金属が冷えて固まるまでの間、砂型で囲われたまま場内で放置される。そして、物の道理で、できた数に比例して置き場はひろがっていくから、どこからでもショットブラストに鋳物を搬入しやすいように、事前に聞き取りした現場の要望を参考にして従来あった場所から中央付近へと変更した。今のところ、まだ慣れていないという動揺以外に混乱はみられない。
 工場内は、相変わらずおだやかに鋳造作業が進んでいく。新品を納入したとはいえ、既存の機械の交換だし、作業内容はまったく目新しくもなくここの人々からしたら取るに足らない日常でありすぎるから誰も見向きもしないが、ショットブラストの内部では製品を破壊してしまうほどの勢いで細かい鉄球が暴れまくっている。
 この会社に訪問する時にはいまだに社長が同行してきて目障りだけれど、それは信用を勝ち得ていない証拠だから歯痒くもあり、過保護のようで気恥ずかしい部分もなくはなく、だからと言ってまだ経験不足はいなめない優紀にとっては受け入れなければならない現実でもあったが、自らが提案した企画だったし承認されたのだから一任してほしい気持ちがないわけでもなかった。
「機械にも一個一個個性があるんだぞ。わかっとるのか。」
 辛抱できなくなったらしく、突進してきて強引に身体を寄せ、社長が耳打ちしてきた。
 唇の離れ際、鋭い眼差しが優紀を射る。
 刹那、強烈に込み上がっていく怒りを噛み殺した。子供の頃に手加減なく浴びせた、あらゆる罵詈雑言が噴き出してきてしまいそうになって口を開くことができず、前を向いたまま優紀は肯き、さらに誰へでもなく、もう一度ゆっくりと肯いた。
 二人の数メートル前に立つ、客先の社長を意識した。
「最善を尽くします。」
 社員としての返事を搾り出した。
「馬鹿か。とうの昔におまえの努力が結果を左右する領域は終わってる。」
 間髪入れず、論理的な一言で突き放された。経営者としての冷静さ、冷徹さ、理路整然とした言動、今でこそかろうじて聞き流せるようになったが、十代の頃は激しい反発を覚えた。
「相対的な部分を絶対化しようなんていう試みはナンセンスなんだ。」
 その言葉が、いまさらだとは思わない。定期的にショット玉を採集し詳細なデータを採らせていただく、加えて、この工程を終えた鋳物をランダムにピックアップして仕上がり具合をチェックさせていただく、その引きかえに原価ほどの格安であのショットブラストを販売した。これは優紀の発案だった。
「バッチ量とか単位時間の処理能力とかの数値化とはわけが違うんだぞ。わからんか?」
 さらに続いた疑問形からは部下に対する返事の強要を感じたのに、あえて無視した。こういう都合が悪い時だけ娘を盾にする性分は直さなければならないと、もう一人の彼女がたしなめる。
「水物なんだ、あそこは。」
「はい。」
 堪らず吐き出したくなった溜め息を寸前で飲み込み、顔を背けた。片時、目をつぶって深呼吸し、高まった動悸をおさめようと努力した。
 何度も機械内を循環させて再利用されるショット玉には、使うごとに砕けた砂がこびりついていく。なので投射ユニットに供給するまえに必ずエアでそれを飛ばして清掃をする構造になっているのだが、もちろん完全ではない。除去できない粉塵が多ければ多いほど、投射ユニット内を摩耗させてしまい、部品の交換頻度が早くなる。ランニングコストの上昇につながる。裏を返せば、優紀の会社ではショットセパレータと呼んでいるショット玉を清掃する機構、ここの性能の良さを資料として提出できれば、営業員たちが駆使するセールストークの大きな武器となるはずだった。だから、優紀は提案した。これから最低でも一年に渡って定期的にショット玉を採集し、粉塵の除去具合を数値に表していく。
 実際に利益を極限まで圧縮した価格だったから、まだ社長は不満を滲ませているけれど、元々消耗部品がたくさんある機械なので、納入後、部品の注文から多少は利益を上げていけなくはないから、まったく会社にメリットがないというわけではない。
 でも、いまだに納得できない感情も理解できている。
 この企画を社長へ直訴した時、反対された。機械には個性があるのだと。同じ造り、変わらないスケール、設計図上なんら違いのない機械同士であっても年中不具合を起こす製品もあるし、まるでメンテナンスの必要もない優等生もいるのだと。こんなこと言ってもまだ経験値の少ないおまえにはわからんだろうけど、といらない売り文句が付け加えられた。「資料なんか出してその通りにならなかったらどうするつもりだ?」「いちおの目安だから。」「じゃあいい結果が出なかったどうする? 納入するのがたまたま通常よりも摩耗が速い性質のものの可能性だってあるんだぞ。」みんなの前で怒鳴られた。「頼みますよ藤マシナリーさん資料と全然違うじゃないですかこんなに部品の交換頻度が早くっちゃお金も手間もたくさんかかっちゃって参っちゃいますよどう責任取ってくれるんですか御社が絶対だって言ったからうちは御社のショットを買ったんですよこれじゃ詐欺じゃないですかって詰められるぞ。どうする? 目安です、で逃げきれるか?」そして一年の保証期間中、ずっと改良工事をさせられるものと仮定して、工数を予測し、一回の工事費用を頭で計算し年間での総額を一瞬で言い当てて、この計画を推し進めた場合に会社がこうむるであろう損失を計上した。酷い赤字だ。ボランティアがやりたいならどこぞのNPOにでも転職しろ。でも引かなかった。なら削る利益分は私のお給料から補填してくれてかまわないからとかそんな真似できるかそもそも論点が違うなどと頑固者同士のせめぎ合いの末、高すぎる授業料だと嫌味を言われながらも、最後には社長に決裁された。
 おそらく、ずっとこういう公開処刑みたいな罵倒や全否定からは解放されないだろうし、たとえ良い結果を残せたとしても違う批判材料をこの人は見つけてくるだろうことはたやすく予想できた。他の社員より厳しくされるのは宿命なのだろうし、義務でもあるのだろうし、身内のえこひいきだと勘繰られないためには避けられない道なのだろうし、優紀だけに赦された権利でもあるのかもしれない。
 事あるごとに、優紀の頭の大きさには釣り合わないヘルメットを上にあげる。少しうつむくだけですぐさま額に覆いかぶさり視界を押し潰してくるので、とにかくわずらわしい。母に似て、背丈は高くない。もうちょっとだけでも伸びてくれれば、洋服をもっと選べたのにと思う。
 掌をお腹の前で組み、超硬製のザルにならべてショットブラストの体内へと送り込んだ鋳物たちの状況を想像する。涼やかな金属音は止むことがない。二階建ての建物くらいある直方体の、左側の壁に四個取り付けられた台形の投射ユニットたちが、各々決められた角度、範囲に、高さに、こまかな鉄球を撃ち出しつづけているはずだ。ふと唐突に、ハタチの頃にちょっとだけ付き合った、パチンコ狂いのクズ男を思い出す。球は鋳物に当たりもするが、反対の壁にも当然ながら飛び、その壁は摩耗に極めて強いマンガンを使用する場合が多いのだけれども、それでも損傷を免れることはできない。そして投射ユニットの内部だって使用により着実に擦り減っていくので、交換部品だらけという代物だ。つくづく奇妙な工業機械だと、優紀は思う。自らの体内をひたすらに傷つけ、痛めつけて、献身的に製品を仕上げていくのだから。
「ギャンブルじゃねえよ、バカやろう。ロマンなの、大冒険なの。人生の全部があそこに詰まってんだよ。」
 パチの魅力を教えてやると無理矢理連れていかれて入った店内の騒々しさにうんざりし、嫌々打った台で二万円勝ったのも遠い昔だ。
 庫内で吹きすさぶ嵐は目には見えず、鋳造会社の工場内はクレーンの作動にともなった曲が耳を愉しませてくれる。昔大ヒットした、日本中の誰もがサビを歌えるJ-POPのメロディが酷く牧歌的に聞こえる。真っ赤に融かした鉄の湯が、電気炉から取鍋に注がれる。即座に、照明も心もとない暗く沈んだ場内の一部に強烈な明かりが灯る。その、鈍く激しい暖色の発光はそこで従事している人々の作業服の色をあらかた消し飛ばして紅潮させ、生地に鋭利な皺を刻み込み、辺りの影をより深く黒く様変わりさせる。一層色濃く陰影を象った、表面張力がとても強い、こってりした湯が電気炉との別れを唐突に告げる。火花が散る。色が止む。すべてを融かすほどの超高温がここまで伝わってくる気がし、物づくりの根源を成す液体にほのかな畏怖が湧き上がる。
 優紀の前で、二人が落ち合った。
 旧知の取引先。企業間の付き合いは長く、社長同士は昵懇の間柄だ。「いいねえぇ、娘さんと現場来れて、幸せ者だねぇ。」「何云ってんだよ。あんなのまだよちよち歩きもできないんだから、いちいち面倒みなきゃならんからいらん仕事がひとつ増えたようなもんだよ、こっちゃただでさえ忙しいのに。」腕を組み、腰を右に左にふりながらぼやく。「ほんとは嬉しいくせにそんな憎まれ口叩いちゃって。いつまで経っても素直じゃないんだから。優紀ちゃんとデートしたいからついてきましたって正直に告白しちゃえばいいのに。」言いながら、こちらにふりかえった。サ・ミ・シ・イって。隣を指差す、大げさな唇の動きを読み、わざとらしい照れ笑いでそれに付き合う。そして月並みに結婚の話とか決まった男性のこととか、遠慮もなく彼女の中に踏み込んでくる。さっきからほとんど会話のない父との仲を取り持つように笑顔をふりまき、跡取りの話をはじめる。
「そろそろ孫の顔が見たいってさ、お父ちゃん。」
「もう社長、やめてくださいよぉ。今は仕事が恋人ですんで。」
 歩み寄り、肩を掌で叩く真似をした。あからさまに困ってみせ、自分を卑下して、人の親になるにはまだ未熟なのだと痛感してみせた。立ち会っている機械をそっちのけで会話に華を咲かせ、誰かいい人いたら紹介してくださいよぉとせがんでみせる。外面よく接する彼女のことが気に入らないらしくみるみる強張っていく父の空気を無視し、よくよく考えてみれば間接的に所信表明できるまたとない場だったからそこからは自社や仕事に対する熱い想いの丈をわざとつづけ、頃合いを見計らってショットブラストの扉に向かい合った。
 自分の娘かのように、そして無邪気に罪の意識もないらしく、当然の流れのように、不躾に尋ねてくる。ここだけの話ではなく、どこに行っても名刺の苗字から推測され、一族の人間だとわかるとどこでも同じ話題にたどり着くから、うんざりする。跡取りだとか孫だとかと押しつけてきて、一社員としての力量は全然見てくれていなくて、一見歓迎してくれているようなのに本音は全員が実社会からの退場を望んでいるみたいで寒気がする。
 出入り業者として頼ってもらえず子供ばかりを催促されるのは、存在を抹殺されているに等しい。出産は世代を継承していく重要な役割なのかもしれないけれど、事情や希望、これからの目標などによって躊躇する人間だって一定数いるのだ。妊娠しようものなら働き盛りのこの時期に何年もブランクを空けなければならないのだから、スタートが遅れた優紀ならばそのまま因習に押し流されかねないのでなおさら消極的になってしまう。
 一早く母親になった中高の友人たちは、損得勘定ではなく、尊いのだと口をそろえる。申し訳ないけれど、抽象的すぎて胸には響かない。むしろ、ちょっと表現が画一的すぎるからもう少し語彙を増やす努力でもすればと逆にアドバイスを授けたくならなくもないけれど、近しい間柄の同性からならなんとか聞き流せる。でも逆に、他愛のない会話の中での冗談めかした一言であったとしても、男性からは絶対に聞きたくない戯言だ。
 この前とうとう100切っちゃったよ、またまたぁ冗談ばっか言うなって。ほんとにほんと、この歳でまだまだ上達してる自分のことが空恐ろしいよ。大器晩成とはこのことだね。絶対嘘だね、あんなへなちょこスイングでそんなスコア出せるわけねえだろぉ、それがさ、最近いいドライバーが出たんだ、これが。また買ったの? 見る? 同時にふりかえる、さりげない一瞥に知らん顔した。でもとうとう新時代が来たよね、まさか生きてるうちに日本人がマスターズで優勝するのを目の当たりにできるとは思わなかった。ほんとだわな、もういつくたばっても悔いないだろ。マスクを顎にかけて趣味の話に熱中する二人から離れ、稼働しているショットブラストを眺めた。
 通り雨が去っていくかのように、音が止んでいく。想像する。
 雑音を遮断し、仕事に没入しようと努める。役目を終えたショット玉が床下に設置されたコンベアで回収され、垂直に切り立ったバケットエレベータで頭上まで運ばれていく様を頭の中に思い描いた。
 バケット満杯の鉄の球をショットセパレータに投げ入れる。簾のように薄く広く落とし、強い風を当てる。表面にまぶされた粉塵をきれいに吹きとばしてもらってから、次の出番を待つ。本当は聞こえていないかもしれないその動作チャートの、かすかな音に耳を澄ました。
 重々しく、扉が開いた。
 クレーンで前方に運ばれてくる。大の大人が数人は寝そべることができる巨大なザルに載せられた鋳物たちはどれもが異形で、見るだけでは用途の予想はつかない。この工程の前は鼠色にくすんでいた表面が明るい銀色に変わっていて、美しい光沢を帯びていた。作業員と、優紀たちと同行してきたアフターサービス部の担当者が歩み寄りへこんだ部分にもくまなく目を光らせ、当たりムラがないかを慎重に確認する。角度の微調整は終了した。
「それでは定期的にお窺いさせていただきますので、よろしくお願いします。」
 丁重に頭を下げた。他の、近くの作業場にいる社員のところにも足を運び、挨拶してまわった。
 丁寧すぎる態度、相手には卑屈に映るのかもしれないが、自分は減点方式で評価されるということを優紀は自覚している。一般と同じ行動規範ではマイナスをつけられる。胡坐をかいている、仕事を舐めている、俺たちブルーカラーを軽く見ている区別している、社会人マナーがなってない、とどのつまり、それがいかに些細な粗相だろうがワンミスを犯すだけで、だってほらあの子はどうせ社長の娘だからと蔑まれるのだ。
 すいません。私、社長を送りますので後よろしくお願いします。覗き込むように先輩に伝え、挙がった掌に頭を下げた。お先に失礼します。
 使用済みの砂型を大雑把にハンマーで打ち砕いていた青年にも、腰を低くした。視線を合わせるといつもは見ない子で顔立ちも違っていたから言語に迷い、仕方なく、元気よく日本語で挨拶した。
 あらかた愛想をふりまいた後、先行する二人に小走りで追いついた。三時過ぎ、帰途に就くにはちょうどいい時間帯。すぐさまゴルフを勧められ、打ちっ放しに誘われて、コースデビューをうながされつつ工場の出口へと向かう。
 扉の形に切り取られた光が妙に明るく感じ、宙に舞う埃がうっすらと紗をかける。
 当然のことながら、この程度の環境で仰々しい防塵マスクは使わない。出で立ちひとつが重要な採点ポイントになると、懐に飛び込むための常套手段なのだと、優紀は心得ているからだ。それを忠実に実践し、担当になった会社ではどこでも手始めに、汚れを敬遠する箱入り娘だという先入観を払拭させるため、羽織った作業着が黒く汚れようともこまめに払ったりしないし、砕けた砂が指紋に入っても爪の間に喰い込んでも頓着しないし、むしろ勲章のつもりで誇らしく振る舞っている。

 車のドアが閉まると、とたんに家族が充満する気がした。
 中を満たしている気体は外気と何一つ成分が変わらないはずなのにあらゆるしがらみが濃くて息苦しく、けれども深呼吸は逆にしたくもない、そういう雰囲気に包まれた。
 右手でボタンを押し、両側の窓を数センチだけ下げた。やわらかい風が肌をなめだす。
「換気なんかいい。今までのデータ見るかぎり大したウイルスじゃない。」
 同時に、助手席からの大気がやんだ。指先を静かに載せ、彼女のほうの隙間を大きくした。窓ガラスが自動で下がっていく音が、やけに大きく感じた。フットブレーキから足の裏を離し、ハンドルを時計回りに切りつつ、惰性で駐車場からにじり出た。
 車の運転は嫌いではない。元来が男っぽい分野が好きな性格で、高校時代には校則で禁止されているのに内緒で原付の免許を取り、乗るにしても、クラッチが付いてないスクーターなんかは選ばなかった。得意という理由で理系に進み、心の片隅では常に会社の面影がちらついてはいたが、だからといって機械が好きというわけではない。複雑な気がする。優紀は、自分自身が酷くこんがらがった奇形のように思えてしまう。我が子を望むし、望まないし、子供自体は好きでもないけれど嫌いでもなく、いつも、どこもかしこも、すべてが曖昧で、確固たる自分自身がいないような、自分自身の心身に足を引っ張られているような、泥沼にはまってしまったような、宙に浮いて足元がさだまらないような、辻褄が合わない気分がいつも付きまとっているのだ。
「現場にまで来んでもいいだろう。」
 一瞬、助手席を見た。
 相手は頬杖をつき、外を眺めていた。
「私が提案したんだし、全部面倒をみたいんだけど。」
「営業の仕事じゃないのか? 出来あがったその資料持って駆けずりまわるのはアイツらなんだし。」
「うん。」
 私も営業だよ、所属は。心でつぶやく。
 おそらく優紀の父は、彼女を戦力として数えてくれてはいない。まだ半人前の現在は、ではなく、これから十年二十年の構想から洩れていて、退職イコール大打撃となる職種を担当させる気はなさそうだった。
 とりあえず何年か鋳物の世界を体感させ、聞き分けのよくない娘を納得させてからタイミングを見計らい、いずれ無難なデスクワークに移そうとしているのはその態度からひしひしと伝わってくる。父の性分からして、もしも優紀が男だったのなら微塵のためらいもなく千尋の谷に突き落とされていただろうに、そういう人事はなされなかった。
 こういう時にかぎって、雲がひとつもない。
 優紀は、晴れ女な自分自身のことを恨めしく思う。
 節目は決まってよく晴れていて、雨だった記憶は少なかった。太陽なんてものは目障りなだけで、気分がふさぎ込んでしまうくらい土砂降りになってしまえばいいのにと思う。隣の声も聞こえないほどに風雨で荒れ狂ってしまえばいいのにと、強く願う。それなのに、毎回、必ず、優紀は晴天をものにする。
 社会人初日も、厭気が差すくらいの青空だった。日射しがとても強く、季節には似つかわしくない汗ばむような陽気だったのを、今でもまだ憶えている。
 改革に取り憑かれた。いつも遅い原価算出に平気で文句を言ったし、エアシリンダーたった一本の納期確認ごときで日をまたごうとする遅速に公然と噛みついた。
 長年存続している会社が旧態依然とした化石のように優紀の目には映っていたし、中途で入社してきた社長の娘としての実績に焦っていたのも否定はできないし、とにかく何かを壊したいという無責任な衝動に突き動かされていたという分析もあながち間違いではなかった。理由はなんであれ、止まれなかった。
 入社後まもなく、部長どころかまだ肩書きもない平社員なのに月一の幹部会に参加できるようになったのは父親の鶴の一声だったのか、能力を買ってくれた誰かの進言だったのか、裏の事情は今もわからない。希望を持って妄想をふくらまし、きっと後継者に帝王学を授けようとしているのだと考えるのは父の性格からして無理があったので、もしかしたら娘の鼻っ柱をへし折ってやろうという魂胆だったのかもしれない。どちらにしても、優紀が加わることになって初めて開かれた会議での仏頂面から察するに好意的な意図ではないのはあきらかだったし、事あるごとに隠そうともせずに滲ませた、どうも腹落ちしてなさそうな面持ちからすると執行部の方々に説得されたという経緯が正解だったのかもしれない。
 いわゆる、血族への平身低頭か。忠誠? 特権? 評価された? 先輩たちの手前、一足飛びの抜擢にためらいもあったが、またとない舞台を与えられた彼女に発言をおさえる謙虚さは具わっていなかった。
 藤マシナリー株式会社のロゴデザインの変更を提案した。
 創業以来、ずっと変わらないみすぼらしい作業着の一新も議題にあげた。
 前者は古株にむべなく却下され、もう一方は予想外の賛同を集めて、簡単に承認された。今思えばご祝儀みたいな採決だったかもしれないが、歓喜し、案を練った。丈夫で汚れにくく、工場勤務の職人であれば溶接などで火の粉を浴びる時も少なくないので耐火性に富み、速乾。現場で採寸したりしなければならない設計部のために、ペンを差せるスリットやポケットの位置などの機能面にも手は抜かなかった。見栄えが悪く汗染みも目立つ灰色から、濃紺にチェンジした。
 ショットセパレータの構造にも口を出した。たとえば、部屋の中でコード類が密集している場所とか電気機器のまわりにはいつも埃が溜まり出す。こまめに掃除をしているつもりなのに綿ボコリが見つかる場合も珍しくないが、それは微弱な静電気が引き寄せているからだ。だから機構内に、人工的に静電気を引き起こす装置を組み込んでショット玉の表面に付着した粉塵を吸い取ってしまえば、劇的に性能が高まるのではないかとアイディアを出した。
「いかがでしょうか?」
 設計部長は苦く笑うだけで、頭を掻いた。
 食い下がり、トライすることの重要性をしつこく説いた。原価が上がってしまい相見積もりで他社との価格競争で不利になったとしても、長期的なランニングコストの面でのプレゼンを行うことにより挽回は充分可能だという自信があった。たいした改良もなく馬鹿のひとつ覚えみたいにエアで吹きとばす構造でしか造ってこなかったのだから、試作してみる意義は絶対にあると確信していた。この件に関して言えば、なにも手柄に焦ったわけではなかった。大見得を切ったせいで引き際を誤り、退路を失ったせいで意地になったわけでもなかった。全員が思考停止しているような、過去の遺物に頼り切って判で押したようにものづくりしている雰囲気が厭だったのだ。
「鋳物屋でやったら危険だわな。」
「なぜですか?」
 小柄なのに鬼瓦みたいな面持ちをしている設計部長は、今度は額を掻き、ボールペンで企画書を小突きながら社長を盗み見て、他部署の統括たちをちらりと見渡した。
「何が危険なんですか。歴史が長いからって既存の構造を改良しちゃいけないなんて話はないでしょう。一回やってみましょうよ。だってエアと併用なら確実に効果はあがるはずじゃないですか。」「粉塵爆発が怖いよね。」
 渋々、口を開いた。
 沈黙が、やたらと痛かった。
 鋳造会社は砂を多く使い、それをくりかえし再利用しているうちに砕けて細かい粒となって空気中を舞い上がる。近年では労働環境が改善されてきているので全部がそうとは言いきれないが、工場によっては視界が阻まれてしまうほどに煙っているところもなくはない。
 優紀は唇を噛み、何度も肯いた。謝った。
 積み重ねないといけない知識は多い。いや、単に博識になるだけではなく、知恵を身に付けなければならないのかもしれない。
 とにかく、多い。
 彼女の気まずい無言が、誰かの口から休憩の言葉を搾り出した。ただ単に日々を勤務するだけでは追いつけない差を見せつけられてしまい、悔しさが募った。出来ることを探す。お茶淹れます。蚊の鳴くような声で囁いた。
 ドアを開ければ鼠色の事務デスクでいくつかの島が作られている、総務室だ。味も素っ気もない殺風景で、洩れなく寒色ぞろいで色彩に乏しく、急激に意欲がそがれていく気がする。会議室の真逆側の壁沿いに置かれているキャビネットの上の招き猫と目が合い、なんとなく眺めた。
 人生の大半を仕事に費やす人間がほとんどなのだから、もっと楽しく、明るく、まあ、グーグルほど遊び心があっても働きにくいし人気デザイン事務所みたいにお洒落でなくもいいのだけどカフェテリアのような内装の会社があっても面白いのではと、彼女は思う。でも却下されるのは目に見えている。藤マシナリーだけが例外ではなく、インテリアなんかで遊ぶ余裕がある会社は多くない。資力がなければ実現できない理想は、少なくない。
 左端の席では経理の女性が忙しそうに領収書の束と格闘していて、営業が溜め込んでいたらしい出張手当の計算をしている最中だった。
 その辺りを見回し、トイレなのかとも考え、斜め向かいの妙に片付いている一席まで歩いた。空のデスクに労働の気配は感じられず、バーバリーの膝掛けが、椅子の背もたれにきれいに折り畳まれていた。
「あれ、西澤さんは?」
「さっき体調不良で早退しました。」
 顔も上げず、電卓を叩きながら答えた。
 今日は朝から具合悪そうでしたから。手の動きを止めて経理の女性が一言付け加えると、ちょうど床に滑り落ちた一枚の領収書を拾うために身をかがめた。デスクの影から、何かこもった声が届いた。
 急速に、胸の内からとんでもない不満が噴き上がってきた。そんなことくらいで帰らないでよ。吐く息に混じらせつつ、つぶやいた。
 今度の女の子は生理が非常に重いらしくて、毎月同じような時期に欠勤とかがやけに目についた。派遣社員の意識の低さや女を言い訳にして平然と仕事に穴を空ける責任感の欠如に激しく苛立ちを覚えて、首をふった。とにかく髪の毛を掻きむしって平静に努めようとし、でも髪型が乱れてしまうのが厭だったから地肌に触れたところでぐっと我慢して、それなのにその沈着さが仇となってしまい、あの派遣社員の赦せない項目を脳が列挙していった。確か、派遣会社には時給千八百円払っている。もちろんタイムカードを押して退勤していれば発生しない賃金なのだけれど、お金の問題ではなく、雑用の手間が増えたからではなく、社会人としての自覚の低さのせいで、同性として憎しみが湧いてきた。思わず、舌打ちした。
 どうりで会議中、事前に指示しておいたのに待てど暮らせど飲み物が運ばれてこなかったわけだ。基本がなってない。社会人の最低水準にも達していない。二千歩ほど目一杯譲って、どうしても具合が悪くて早引けるのなら、受けている仕事の引き継ぎを他の女性社員にしてから退社すればいいものの、そんな簡単な気配りすらもできない彼女に失望が募った。できない女性が多い。優紀の感覚では到底理解できないようなレベルの女性が巷に溢れかえりすぎていて、頭を抱えたくなる。だからいつまで経っても女性の地位が向上しないんだよ、そんな甘えた考えの人たちばかりだから女性が社会進出できないんだよ、と優紀は呪いたくなる。
 高い水準で闘えないのなら、とりあえず同じ世界から出て行っていただきたい。
 空気の変化に勘付いて用件を尋ねてきた経理から、顔を背けた。年代の近いその女性からは若干の怯えが透けて見え、いつの間にか威光ではなく威厳が身に付きはじめているのを悟った。
 給湯室のシンクの横にお盆を置いて、人数分の湯呑みを並べた。
 暗黙の了解だ。毎年男性社員は入社してくるのにこの業務は誰からも強要されることもなく、まずは派遣社員の女の子、手が空いていなかったり今日みたいに不在であれば他の女性社員、経理でも品質管理でも調達部でも総務でも本業に関係なく、優紀たち女性従業員の範疇となっている。必要悪みたいなものだと思う。これで社会がうまくまわるのなら文句はないし、当然の役割だと納得しているし、女性が淹れたお茶だと喜んで飲む馬鹿な男性社員も少なからずいるから仕方がない。むしろ大事な時に生理なんかでさっさと早引けた派遣の彼女に、そして朝出社してまずポットに水を補充しておかなかった至らない彼女には、失神しそうになるほど腹が立った。
「優紀ちゃんさぁ、濃ゆいブラックコーヒーが飲みたいなー。」
 製造部長が顔を捻じ込んだ。
「あ、他にもコーヒーの方いらっしゃいますかね?」
「全員一緒でいいんじゃない? 優紀ちゃんが淹れてくれたならみんなおとなしく飲むでしょ。」
 湯呑みを戻し、戸棚からマグカップを取り出しつつ、笑顔を返事に替えた。
 社会には無能な女性が多くて困る。頑張っている人間に皺寄せがくる、同類だと思われて弱る。優紀自身が全身全霊をかたむけて男社会と張り合っているのに足を引っ張ってくる女が後を絶たずに生産されてくるし、指摘し非難すれば逆にこちらのほうに共感力が足らないのだと批判される始末だし、風潮だし、だから一向に現状が好転していかないのだと、優紀は嘆きたくなる。
 性別を根本から度外視して馬車馬のように働くわけでもなく、女を武器にするわけでもなく女というエサであざとく釣るわけでもなく器用に泳いでいくわけでもなく、女を社会的弱さの象徴として自認し、そもそも敢然と立ち向かう気概すらなく、護ってもらわないと一人では何も立ち行かない生き物としてのんべんだらりと生活している同性には虫唾が走る。絶対に、仲間とは思われたくない。
 給湯室から顔を出した。
 まだ、経費の精算に没頭している。
 脇に、飲みかけのペットボトルが置かれていた。
 隣で開かれている会議が中断し、幹部が部屋を出入りしはじめたのにその様子から起こすべき行動を見つけられない。自分がお湯を必要としないからポットの残量にまったく注意を払わないし、全体の状況を俯瞰できていないから、誰かが不都合をこうむるかもしれないという想像が働かないのだ。女性ならではのきめ細やかな感性すらも退化してしまっているのなら、存在している価値はない。
 そういえば、管理職に女性はいない。
 もしかして抜擢されたのは実力がある水準に達したとかの大した理由ではなく、単にホステスとしてなのだろうか、ふと頭によぎった。ポツポツと、今頃になってやっと沸点に近づきだし、ほのかな煮沸音を立てはじめたポットに気持ちが逆撫でされる。
「あの竹内さんさぁ、ほんとうに申し訳ないんだけどそれ一旦中断してもらって、お湯が沸いたらコーヒー淹れてもらえるかな? 人数分。」
 頭ごなしの指図はしたくないので、極力穏やかな声色でお願いした。すると計算機を叩く指は早いのに反応は鈍く、生返事が上がる。立ち上がりかかったのに、重い腰を椅子に粘らせる。
 頭に血が昇った。
「あのっさぁ、」
「さっきのも冷やかしに聞こえたかもしれんけど、江原社長も心配して言ってくれてるんだぞ。」
 空いた道路を一台の車が加速していく。
 ちらりと助手席を盗み見ると、まだ景色を眺めていた。返事もせずに、小さく凝縮されていく車種に目を移した。日本車のデザインってなんであんなにダサいのばっかなんだろ、軽トラを追い越す直前に点滅したブレーキランプを見つめて、考えた。
 以前訪問した日産の大工場は広大な駐車場を有しているのに他社製の車は駐車させてくれず、社用車を近くのスーパーに停め、同行していた商社に乗せてもらって入構手続きを済ませた。先輩から聞いたときはそんなの単なる都市伝説だろうと高を括っていたのに、守衛はしっかりとエンブレムを確認していた。うちから仕事をもらってるくせにうちの車は買わないんだ。へぇー、そうなんだ。という理屈なのだろう。肯けなくもない。
 そうだ。こちらの常識や都合を押しつけ、屈服させて、服従させて、誰にも口出しさせない自由な生き方を獲得するためには強くならなければならないのだ。
「憶えとらんだろうけど、向こうはおまえが小さい頃から知っとるんだし。遊んでもらったし、誕生日にはプレゼントももらっただろ。」
 溜め息とともに腕を組んで、真っ直ぐ向き直した。
 絶対にセパレータの件で説教したいはずなのに、おくびにも出さない。
 こちらを見もしないで、「モーターベルトに巻き込まれたら腕一本失くなるんだぞ。」とつぶやく。「気が付いた瞬間には全部いっとるぞ。」そして動物は回転体に対して本能的な興味を抱いてしまうのだと言い、眺めているだけでふと魔が差して手を伸ばしてしまうのだと、運転席を直視する。湯がかかったら火傷じゃ済まん。場所によっちゃ高圧線が走っとる。どこがどれがなんでどうしていつ危険なのかわかっとらんのが一番危険なんだ。遊びじゃあないんです。そうやって立て板に水で喋ると、不機嫌そうに、窓ガラスとまた向き合った。
 頭のうしろに、耳殻の裏にでも、目じゃないところに瞳がたくさんくっついていてこちらの動向が逐一監視されているような気分に襲われる。藤田優紀。産まれた時、父は「紀」ではなく、「姫」という漢字を使いたがったという話は、以前母から聞いて知っていた。女性らしさ、父の世代からすれば大和撫子とでもいうのだろうか。優紀を溺愛し、何不自由なく育ち、高校時代に溝はできた。親子喧嘩の頻度は増し、会話は途絶え、食事をともにするのも数年にわたってなくなった。
 反論を許さない、そういう余地すら与えない厳しさを憎んだし、父が信じて疑わない女としての既定路線に乗せられることを嫌悪していたのかもしれない、ただの思春期による反抗期だったのかもしれないし、拙い社会経験の中で男に抗う具体的な術をまだ持ち合わせていなかったからなのかもしれない。
 期待される未来に違和感を抱え、簡単には人生の可能性を捨てきることができず、けれど一人娘としての責任も感じていた。
 気持ちを明確に言語化できない世代特有の、単なる癇癪だったのかもしれない。
「今は、今だけで精一杯だから。」
 出すタイミングを逸していた嘘とも本音ともとれない漠然とした感情を、遅れてこぼした。
「早く戦力になりたいというのはもちろんわかっとるけど、事務とか経理とかいくらでもあるだろ。どれだって大事な仕事だぞ。他の社員とやりにくいのならポストも用意するぞ。」
「やなの、そういう特別扱いが。ただでさえ厳しくみられるんだし。」
 身内びいきの近道ばかりを使った経営者に求心力が具わるはずがない。ただでさえ女ということで逆風は強く吹くはずなのに、ましてやそんな卑怯者に誰かがついてきてくれるとは、優紀には思えない。多分産まれるのは白眼とか対立構造とか労働意欲の減退とかで、あまりに今楽してしまえば後に困難が付きまとうのは同僚たちの態度からなんとなく見当がついていた。けれどもこの胸の内を吐露した時の、父親に浮かぶ顔の色を確かめる勇気はない。
「会社の力になりたいの。」
 全力で搾り出した言葉がこれだった。
「別に、今の働きぶりを認めとらんわけじゃない。」
 今後の展望は話してくれない、訊くこともできない。
 再び深い溜め息が届き、腕を組みうつむいたところが視界の端に引っ掛かった。
 高校を卒業しても、永い間定職につかなかった。当然のように大学進学を望んでいた両親は酷く落胆したが、知らん顔してフリーターで過ごした。とりあえず昔夢だったアパレル業界に飛び込んでみて働き出し、するとささやかな憧れは実際に勤めてみると瞬く間に砕け散ってしまって、その後は時給のよさやシフトの自由さだけで職場を決め、アルバイトをよく辞めた。
 夜は明け方まで帰らず、悪ぶった男たちと付き合い、よく恋人を替えた。イニシアチブは自分にあると信じて疑わなかったから気に入らなければ一回きりで捨てたし、けれども因果応報はあるらしく、捨てられたりも何回か経験した。寸分もレールを外れることのない、ごくありふれた堕落だった。それなのに実家を飛び出すわけでもなかったし、他の一般家庭よりも裕福な生活を謳歌しているのに、させてもらっているのに、連日のように親に楯突いた。
 物心ついた頃から、優紀の世界は決定していた。だからこそ、これから歩むのであろう将来を本能が厭がっていたのかもしれない、怖れていたのかもしれない。大人になってから背負わされる宿命に慄きまくり、一人娘の重責から逃げまわっていたのかもしれない。
 若い時分にはひたすらそれに抵抗し、模索し、足掻いてみせて、三十歳が目前に迫ってきたあたりで父親が二代目社長を務める、鋳造機器製造メーカーの藤マシナリー株式会社に入社した。今まで散々、生意気いっぱい好き放題過ごしてきたのに、結局のところは、一族の才覚で築き上げられたこの会社に食べさせてもらっている。
 それは優紀にとっての世界の全部が『藤マシナリー株式会社』に決定した瞬間であり、いや、産まれた時からすでに用意されていた宿命にとうとう対峙した瞬間だったのだ。そして学生時代に寄せられていた期待とは様相が異なり、月日の経過によって、その星が内包している要素の大半が「結婚」と「出産」に集約されていたことを痛切に思い知る社会人生活のはじまりでもあった。
「たまに顔を腫らしてきたりして、何を考えとるんだ。」
「別にいいじゃん。」
 普通に、勝手気ままに振る舞えたらどんなに楽だろうかと、優紀は考える。父に決して隙を見せるわけにはいかずそれどころか能力を認めさせなければならず、母には失望させないように異なる自分自身を演じていて、一体どれが本当の自分なのかわからなくなる時がよくある。
 もしもお腹に子供を宿しでもしたら、そしてその子供のせいで実社会から弾き出されてしまったのなら、自分自身が狂ってしまうのではないかと空恐ろしくなる。客先との縁がリセットされてしまうから長期の離脱は極力避けたいし、産休中に戻る場所がなくなっていたらと考えると猶のこと及び腰になるし、社員百名程度のこの中小企業に産休も育休も制度として確立していないのだから、ひとりだけ家族を優先でき、好きな時期に復帰できるような、創業一族の特例ばかりにまみれていられるほど面の皮も厚くない。
 今、そういう環境整備に着手するのは利己的に感じる。今後のみんなのためという大義名分をよりどころにし、率先して取得実績をつくるのも気が引ける。選択肢は多くない。それどころか、うっすらと、しかし明確に明白に、女が歩むべき道筋が一本だけ引かれているように思えてならない。乗りたくない。通りたくない。世間に流されるのではなく、必然のもとで進みたいのに両立できる方法が見つからない。このままでは自己実現を妨げた元凶として鬱屈のはけ口に使ってしまうのではないかと、こんな機能を持って産まれてきてしまったがために出産を強要されたのだと、彼を、あるいは彼女を、残酷に見限ってしまうのではないかと怯えている。
 溜め息さえ洩れない。
 道路は適度に混んでいて、空いていて、流れる速さは制限速度の範囲内だ。向こう見ずにアクセルを底まで踏み込んで、憂さを晴らすような無茶もしない。安全に、確実に、帰社をする。
 父の会社に入社するということは、父の常識で構築された世界に足を踏み入れるということと同義であって、それは父への迎合であり隷属でもあって、父は堂々と意見を述べる権利を得たのであって優紀はそれを最大限に受け入れなければならない義務が生じたのであって、そこでは父の価値基準が絶対であることに疑いはなく、だから次期社長や後継者の誕生とかを考えなければならないのも痛感している。自分のほうから進んで組織に帰属したのに、個人の主義や主張を貫くようなわがままが赦されるはずがない。そうは言っても、役割を果たした対価として与えられる生活の永久保証と引き換えに、尊厳を売り渡す真似はしたくない。その安息を、真の安息だとは思えない。でも、母の喜ぶ顔だって見たい。
 けれど主婦で終わりたくない。家事と育児だけに追われる毎日など、まっぴら御免だ。たまたま神の匙加減により女に産まれたというだけで家庭に入るべきとか、服装のテイストとか派手すぎないナチュラルメイクとかヒールを履くとか貞淑だとかと、世間から負わされる「在るべき姿」が多すぎる。
 それでも、かつては呪いに呪った生い立ちも、今では運が良かったと感じている。せっかく社長の子供として生を受けたのだから経営者の才覚を試してみたいと、いつからか考えるようになった。年商の現状維持は必須であり凡庸、多少の右肩上がりくらいなら先代の手腕による残滓だと判断されるだろうし、常に向けられるであろう値踏みの眼差しは覚悟している。それでも自らの能力で、藤マシナリー株式会社をさらに大きく成長させてみたい。
 確かに関わり方は他にもある。たとえば家族をひとつの生命体と見なすなら、どの面で実社会とつながるかだろう。でも優紀は内助の功を発揮したいのではなく、社長を務める配偶者を尻に敷いて家庭では頭が上がらないように教育することでもなくて、自身が舵を取って会社を切り盛りしていきたいのだ。
 専業主婦を希望する女性を否定するつもりはないけれど、それは数ある自由な選択肢のひとつであって女性全員が必ず選ばなければならない進路ではない。優紀のように、家庭を窮屈に感じる女性だっている。世の中には、総合職で働きたいと考える女性だっている。とはいっても皆が皆突き詰めて高みを目指せるわけではないと心の片隅ではわかっているが、女性の活躍の場をひろげようと奮闘している優紀の立場からすると、男だけが跋扈している実社会から主役の座をぶん捕ろうと企んでいる女性の足手まといとなるような行為は、到底見過ごすことはできない。同じ会社で働くのならば腰掛けは赦さないし、赦せないし、いずれ寿退社するつもりであっても在籍中は最善を尽くしてもらうし、男性なら苦労しなくても向こうから用意してくれるその地位を獲得するためにその日をできるだけ早く到来させるために、多少の自己犠牲や返り血は浴びてもらわなければならない、と優紀は考える。
 過去、親類たちから父によく似ていると評された記憶が蘇る。
 深く考えるとやるせなくなる。
 闘いには犠牲がつきものだ、だからしょうがない。と諦観してみる。
『しょうがない』という無責任な言葉だけですべてが済まされてしまうそんな時代が訪れることを、優紀は夢想する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?