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伊丹へ行って2010年初頭を振り返ってきた

9月に大阪で女装をする前に、兵庫の伊丹へ小旅行へ行ってきました。何もないような所にYOUは何しに行ったんだと思う方もおられると思いますが、2010年、伊丹は自分にとって人生の転換ポイントなのです。

2010年は、この記事の最初の方ですこし語っているのですが、前職へ入社し、社員研修が始まった年です。その社員研修で伊丹へ1ヶ月半ほど行っていました。

研修は洗脳まがいのスパルタ教育で最悪な事も多く、特にミスをしたら7つの綱領を大声で読まされる事と、木材用の糸鋸で直径3cmの鉄の棒を切断する速さを競わせる虚無みたいな講習が最悪でした。日々の生活では淡路島のヤンキーに三重訛りが生意気だと因縁つけられた事、寮で「仮面の忍者赤影」を見ていたら突然部屋に同期が入ってきて馬鹿にされた事(これは鍵をかけなかったおれが悪い)、女子にイキ告した事など挙げればキリがないぐらい恥ずかしいエピソードが出てくるのですが、人生で初めて親元を離れて寮で疑似ではあるものの一人暮らしをした事、都市らしい都市と言えば名古屋ぐらいしか知らない自分が近隣の大阪という大都市の物量(主にレコ屋まわり)に触れた事のカルチャーショックは、今でも良い思い出として残っております。

さて、最初は伊丹駅からスタートします。

7年ぶりにこの地に来て最初に驚いたのは、昔と殆ど変わりがない事でした。街並みも、空気感も全く変わらずそこに佇んでいました。

ここの地下のツタヤでPSPのガンダムゲーを同期と買って遊んでました。2週間後、そのゲームを続けているのはおれ一人だけでした。

カーニバル。こんな店あったっけ・・・

研修中、ここで良く映画や特撮を借り、

近くのドンキで夕食用の保存食や飲み物を買い、一人で部屋に籠ってました。寮には食堂があったのですが、野菜が嫌いな事と食事に時間を掛けたくない事と同期に会いたくなくて研修中盤から食事をキャンセルして部屋に籠っては借りてきたDVDを観るライフスタイルに変更しました。

自衛隊の駐屯地。奥に見える戦車は74式戦車でしょうか。

サイゼリヤ。ここには印象深いエピソードがあります。GWになり同期のほとんどが帰省する中、自分はある計画を実行するため伊丹に残っていました。「折角大阪が近いし、初クラブ行くか!」クラブ童貞脱出計画です。この頃丁度サージョンとベン・シムズが来日し、大阪のKarmaでDJをする事になっていました。日を跨いだ遠出の際は寮長(寮に住む社員)に許可をもらう事となっていたのですが、自分は嘘をつくのが苦手で馬鹿正直にクラブへ行くことを話しました。まあ流石に無理だろうと思っていた所、なんと許可をもらう事が出来たのです。おそらく「コイツは酒もたばこもやらないクソ真面目なオタクだしハメは外さないだろう」と思われていたのでしょう。

そしてすんなりとクラブに行くこととなった自分。退廃の象徴へ近づく緊張を抑えながら重い扉を開けると、そこには顔中ピアスのキャッシャーが。そこでさらにドキドキしながらお金を払い、「僕クラブ初めてなんですよ」見た目とは裏腹に親切に対応してくれたキャッシャーの後ろを見ると、ホアン・アトキンスの来日を知らせるフライヤーが貼ってありました。「ホアン・アトキンス来るんですね~」と自分。「そうですね、しかしJUANをホアンと読む人って中々居ないっすよね~。」他愛ない会話で、話が分かる人に初めて会う嬉しさ。もうクラブは怖い所ではなくなりました。

クラブの轟音に驚き、サージョン&ベンシムズのハードミニマルmeetsちょっとシカゴゲットーなDJにブチ上がり、あまり金が無く酒が飲めない為チケットのコーラ一杯で粘っているうちにイベント中盤。正直言うと、そのころはまだ特定のジャンルにしか興味が無かった為か、サージョン&ベンシムズのDJが終わると暇に感じていました。イベントに出ていたDJの皆さんすみません。

当時はスマホがなくSNSもやっていなかったので暇で、なおかつ始発も走ってない状態。金もなく長い時間漫画喫茶に泊まる訳も行かず。暫くして踏ん切りをつけてクラブを出て漫画喫茶で爆睡後寮へ戻りました。最高なような微妙なようなよくわからないクラブ初体験でした。

次の日、謎の腹痛と発熱にベッドで苦しみ、助けを呼ぼうにも寮長すらいない寮内。汗だくでうなされながら地獄の時間をやり過ごし、夜になってようやく動けるようになりました。食料も底をつき、寮の食堂もしまっている状況。嵐を抜け、晴れ間が広まったかのように楽になった体で、一人で食事をしに行った所が上の写真のサイゼリヤという訳です。

昆陽池公園へ来ました。研修初日、初めて過ごす大規模ベッドタウンの街並みにワクワクしながら、この公園の近くに出ていた屋台でカステラを食べていた事を思い出しました。後の地獄を知らずに…

本当にのどかです。もっと金持ちになったらこういう所の近くに住みたいですね。もし一文無しになったとしてもこの公園に住みます。

収容所群島

本社への道。毎朝ここから研修場所へ行き、昼にクソ不味い弁当(食に対して雑なおれですら不味いと思ったので、相当アレだったと思う)を食べ、クソ研修を受けて寮へ戻るの繰り返し。帰路ではクソ研修の感想文をさっさと切り上げてDVD見て寝るか、とか考えてたっけか。

道の脇にある池には沢山の亀がいました。どつきあいを見るだけでも癒されます。

道を真っすぐ行くと、また新しい池があります。こっちでは白鳥やカモなどが居ました。

GHETTOはここにも存在した

大本営。ここも本当変わらないな~~~~!

先ほどの池を離れ、入り口に戻ってきました。この看板を見る度に鹿児島から来た女の子の事を思い出します。研修で同じ班にいたその子は小柄で、容姿は可愛いわけでもなくシャープな美人でもなく、イメージとしては教室の隅でさえない女子とアニメの話題で盛り上がっていそうな感じの地味な女子でした。確か、仕草がかわいらしいとかそんな理由で気になってしまい、男子校育ちにありがちな「気になった瞬間同棲して1年後ぐらいの未来像を考える」フラッシュも真っ青な音速の先走り。それに加え、1ヶ月半で研修が終わりその後は別々になるというリミットと、18にもなって交際経験が無いという焦りが自分に一つの結論を出させました。

それが「気になるあの子に告白する」だったのです。

万能感があったとはいえ、コミュニケーションはお察しのレベルなので会話も全くなし。なおかつ班では無駄に意識が高いわりに無能でオタクの変人とみられていたのでどう考えても勝ち目のない勝負だった訳ですが、焦って客観的な判断の出来ない人間にはそこまで考えが及ばなく、むしろ「研修が終わったらもう人生でチャンスはない。もしもの希望に賭け当たって砕けろや!」という思考にハマっていました。

そして日はドンドン過ぎ、研修も後半に差し掛かってきていました。研修でちょっと喋ったぐらいで進展はなし。それでも一縷の望みにかけてその子に勇気を出し話しかけました。「研修後、話があるから一緒に帰らへん?」

帰り道で合流し、ついに告白。答えはなく、彼女はただ困惑といった表情をしていたと思います。ギクシャクしながらちょっとした話をし、最後にクラブはどんな所だったかと聞かれたような気がします。(確か音楽が好きな事、GWにクラブへ行くことを同期の一部に話していたと思います。今でいうイキリオタクだったので...)確か音がデカいとかそんな答えを返した気がします。その後、会うのも気まずくなり会話もしなくなって最後の青春が終わりました。この時、自分にはこういう事は向いてないと悟り趣味で生きる事を誓ったのだった。

しかし、童貞の焦りはそんな誓いをいともたやすく破壊する。研修が終わり配属後、学生時代バイト先で一緒だった子にメールでイキ告しあっさり振られ、2度目は中学校時代の同級生の子に誤魔化そうとして誤魔化せなかった気持ちわるいメールイキ告をしたのだった。当時は本当に人恋しくて焦っていた。今考えるとネットのしょうもない童貞ネタに踊らされてどうかしていたのだと思う。

駅へ戻る。果たして佐伯誠之助のAVコレクションはこの中に納まるのだろうか?

こうして伊丹の小旅行が終わった。7年前の自分と、今の自分では思想や人生観は大きく変わってしまったが、ベッドタウンの良き思い出はまだ原型を留めてそこにあった事を認識した。改めて考えると、7年間のうちに様々な出会いや挑戦や挫折などが非常に多かったのだと思う。

そして過去を振り返り終わり、大阪へ向かった。次は新しい未来に向かって突き進むために。

ホテルのチェックイン時間と女装サロンの予約メールを確認した。時間に余裕があったので大阪ユニオンでいつも通り音源を漁り、塚本のホテルで買ってきたCDをインポートしている間に風呂で汗を流した後、サロンの人との待ち合わせ場所へ向かったのだった。

―女装、それは自分に残された最後の開拓地である。 そこには自分の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。これは自分初の試みとして大阪の女装サロンに飛び立ったダッシュ四苦郎の、驚異に満ちた物語である・・・

インポートしたレイ・バレットのアルバムを聴きながら、このようなしょうもない事を考えつつ。

おわり

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