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小話:宿借り

ちりぃん、ちりりぃんーー


ーーーー

ぐびり、すっかりぬるくなって汗だくのストロング缶の中身を流し込む。
冷たさを失った炭酸水がパチパチとはじけながら喉の奥へぬるりと滑っていく。

もう9月も半ばだというのに、太陽は相も変わらず人様の頭上に坐したままギラギラと焼き射してくる。陰る気配のない射光を浴びて湧き出る汗は、蒸発することも出来ず行き場をなくし、飲み損ねて口端から垂れた出来の悪いレモン水と混じってぼたりぼたりとアスファルトに浸み込んでいく。

ーー暑い。
クーラーもついていないボロアパートから涼を求めて外に繰り出したのが間違いだった。
年季の入った扇風機から送り出されるぬるい風を浴びながら、洗わないままもう何年経ったか分からないシーツに汗染みを作り続けていた時は、きっと外の方がマシに違いないと確信していたのだが、どうやら暑さと酒で俺の頭が融けていただけだったようだ。

ろくに風も吹いていなければ、とぎれとぎれの木陰を這うように辿っても大した涼は得られず、容赦ない陽光が俺の肌をなめる。
日から顔を隠すように頭を垂れてうだうだと歩き続け、ふと顔をあげた先にコンビニがあったときはまさしく砂漠でオアシスでも見つけた気分だったが、汚らしい恰好でぼたぼたと汗を落としながら店内をうろつく俺に向けられる店員の嫌悪の目に耐えきれず、仕方なしに酒をひったくって逃げ場のない熱の海へと戻ってきたのだった。

ぐびり、飲みたくもない酒を惰性で呷(あお)る。
しゅわしゅわとはじける炭酸に爽快感はない。独特の苦みとともに空きっ腹の中へ伝っていく液体。アスファルトの熱にあてられて踏み込むたびにニチニチと足の形に沈み込むサンダル。キャアキャアと甲高い声をあげながらまるで暑さなんて関係ないように戯れるガキ共。
何もかもが不愉快で、何に向けたかもわからないドロドロとした苛立ちが俺の中で渦巻く。

「クソッ!」

空になったストロング感をぐしゃりと握りつぶし、しつこく纏わり付く熱気を振り払うように勢いよく放り投げた。間の悪いことに丁度すぐそばまで来ていたガキどもの足元に落ちたそれは、そのまま跳ね返ってガキの一人に当たった。
わっという短い悲鳴の後、ガキどもが一斉に俺を見やる。
呆然とした顔から徐々に侮蔑の念が漏れ出てくる。責めるような視線を浴びて居たたまれなくなった俺は「ちっ」と聞こえるように舌を鳴らし、さっさとそこを離れたくて足を速めた。

背中をかすめるひそひそ声にちらりと振り返ると、ゴミ箱まで持っていくつもりなのか、カラコロと揺れる缶を拾い上げたガキどもは、もうすっかり何もなかったかのようにまたキャアキャアと奇声をあげながら走り去っていった。

自分のみっともなさに思わずかぁっと顔がほてる。
くそ、くそ、くそ。
俺の小心さを嘲るように心臓がドクドクとわざとらしく脈を打つ。脳天へ駆けあがる不愉快な熱に歯を食いしばり、歩みを速める。情けない熱も騒がしい心臓も、それのせいにするように。


ちりんーー

不意に耳をかすめた涼しげな音に足を止めた。
昔、住んでいた社宅で母が窓際に飾っていた、青と白と透明からこぼれるガラスとガラスがぶつかる音。おわん型のそれを風が撫でるたびに甲高く心地よい音を奏でていた。
海色の短冊を翻しながらゆらりゆらりと揺れる白と青の線で彩られたそれを、まるで波に揺られるクラゲのようだと飽きもせず眺めていたのを思い出す。

風鈴の音だ。

懐かしい音の出所を探し、ゆるゆると歩みを進めながら周りの家々の軒先に目を滑らせていく。子供のころ、セミが鳴き始める季節になると母は必ず白い箱に入れられたそれを押し入れから丁寧に取り出し、窓辺にそれを飾っていた。毎年毎年飽きもせず、錆びたカーテンレールにその身を吊るしてちりんちりんと揺れていた。


ちりりぃん、ちりんーー

どの家にも見慣れたガラス器の姿は見当たらない。
だらだらと滝汗を滴らせながらよそ様の家々を覗き込む姿は完全に不審者の様相だったが、そんなことはどうでもよかった。
どこからともなく流れ着くその音が耳をくすぐるたびに、幼いころのあの情景が思い起こされる。
ところどころ線の切れた網戸を背に、黄ばんだカーテンの傍らをふわりふわり波に流れるように浮遊する。畳についた大きな日焼け跡の中に透き通った影を作るそれだけが、色あせた部屋の中で唯一鮮やかに輝いていた。


ちり、ちりりぃーー

日差しが弱まることもなければそよ風すらも吹いていない。凪いだ熱気をかき分けるように進むたびに己から流れ出る汗が地表へと沈んでいく。相変わらず深い熱の海からの逃げ道はない。それでも不思議と先ほどまでの不快感はなかった。
心地よい音が耳を撫でるたびに、幼き日の窓辺に凭れながら風鈴を眺める俺の頬をさらさらとそよいでいった涼風が、まるで現(うつつ)にも甦ったかのようにこの身に蟠る熱を融かしてくれた。

ちりりんーー

……はた、と気づく。
風が、吹いていない? ならこの音はなぜ鳴っているのか。風鈴は、その身を揺らさねば音を出さない。

ちりん。
真後ろ、ひと際大きなガラスの反響音。
凪いだ空に鳴り続ける風鈴。この何ともちぐはぐで奇妙な状況に、思わず足を止めた俺の動きに合わせるように音が鳴る。

ぞっ、と怖気が背筋を駆け、総毛立つ。
先ほどまでとは質の違う汗が全身から吹き上がり、脈という脈がどくりどくりとうねり畏怖の情を体躯にかけ巡らせる。蟠りが昇華したはずの胸中は一瞬で恐怖の色に染まっていった。
何か、気づいてはいけないことに気づいてしまったような焦燥感に駆られる。

ちりん、ちり、ちりりぃ、ちりん。

まるで、不思議そうに語りかけてきているような鈴の音。
さっきまで心地よいと思っていた音色はキンキンと頭に響いては不快な寒気とともに体中に反響していく。
その一音一音が鳴るたびに、どっ、どっ、どっ、と警鐘を鳴らすように心臓が内側から胸をたたきつけ、得体のしれない不安感を四肢へ脳髄へ、手足の先にまでも押し巡らせる。

きっと、さっきのガキどもが仕返しに何かいたずらをしているのだ。
俺の背に忍び寄ってちりんちりんと音を鳴らし、音の出所を探してあちらこちらに視線を動かす様を見てはくすくすと笑っているに違いない。
そうに、違いないのに、全身から吹く汗が、悪寒で小刻みに震える手足が、居心地悪そうに脈動する心臓が、そんなもの見当違いな考えだと告げているようだった。

ちりぃん、ちりりりぃ。

震える手をぐっと握りしめ、深呼吸をする。
すー、はー、と息をするたびに、胸中にへばり付く怖気を吐き出し、代わりに吸い込まれる熱気で無理やり怒りへと上書きさせるように。
ガキが、俺をおもちゃにしやがって。もし後ろにいるのがさっきのガキどもじゃなくても、人の背後にぴったりついてきてこんなことしやがるような気味の悪い奴は一言でも怒鳴りつけてやらねば気が済まない。

何度深呼吸したって小心な心臓は肋骨でも叩き割るんじゃないかというほど大きく飛び跳ね続けている。爪が手のひらの肉に食い込むほど拳に力を入れ、吐いても吐いても無くならない怖気を無理やり押し込んだ。
ちりん、ちりり、りりぃん、ちりん。
なり続ける語り声はどこか楽しそうで、恐怖と怒りでないまぜになった感情を煽る。歯をぎりりと食いしばり、意を決して後ろを振り返る。

ーーとんっ

体を半ばほどひねったところでソイツに握った拳が当たり、数秒遅れて後ろに倒れ込みそうになっているソイツと”目が合った”。
陽光を反射してチカチカと模られた青と白が流れる透明なシルエット。逆さまになったおわん型の口から、四角く切り取られた光の差し込む海がひらめいている。

後方へ倒れ込む華奢な体。幼いころ眺めていた懐かしい姿。空を掴もうとする白磁器のように生白い腕。空に溶け込む長方形の青。頭がクラクラする。何もかもがちぐはぐで受け止めがたい光景。目の前の”異質”は日射とアルコールが見せる幻なのか。

とさっ、と倒れ込んだ余韻で前後に大きくゆらり、ゆらりと揺れるまあるいガラス。口内の透明な筒は激しく口端を叩き続ける。

ちり、ちり、ちりりぃ、ちりん、ちり。

へたり込んだか細い体からは四肢しか生えておらず首は途中で途切れていて、まるでそうであることが正しいかのように断面は綺麗に均されている。
本来頭があるはずの場所に浮かぶそれはゆるゆると揺れながら黒焦げたアスファルトに透明な影を映し出す。

頭、が、頭に、母が飾っていた、俺のーー。
心臓の脈動が髄液を伝って脳をぐらりと揺らす。異質、異常。目の前の光景を理解できない。脳が、理解を拒む。飽きるほど見慣れた住宅街に佇む異形。
こんなもの、存在するはずがない。人間として異常な、いや、そもそも頭部に浮かぶそれ、それは、俺が。

りりぃ、ちり、ちりり、りりぃん。

ふっと、鼻をかすめる赤い匂い。転んだ時に擦りむいたのか、座り込んだ”ソイツ”の膝からぷつぷつと血が滲んではするりと白い肌を伝って落ちていく。
か細い体。病的な白。滴る赤。その姿にいつの日かの、母親の姿が重なる。
日に焼けた枯草色の中に座り込む母の手は血で塗れていて、カーテンレールに掴まって空を泳いでいたはずの風鈴は、母の手の下でぱしゃりと潰れている。
灰色の部屋を唯一彩っていたソレは、血にまみれて鈍く陽光を反射する。
大好きな青と白と透明。酸化して黒くなった赤でぐちゃぐちゃに塗りつぶされた。いや、塗りつぶした、そうだ、俺が、全部台無しにしたんだった。

ちりりぃん。

二度と聞けなくなったはずの音色、はっと現実に引き戻される。
いつの間にか立ち上がっていたソイツは俺を見上げたまま静かに首を傾げた。
光の反射によって浮かび上がる透明な曲線の中で青と白の模様が戯れている。口から伸びる紺の糸の先に広がる青のグラデーション。
壊してしまったはずのアレは、粉々に割れてしまう前の姿で俺の前に佇んでいる。

ちりん。
おずおず震える両手を持ち上げソイツの頬を撫でる。どこにもひび割れはなく何にも引っかからずに滑る指。青と白の塗装の上だけ、僅かにざらざらとした感触が伝わる。
ああ、本当に、本当に、あの風鈴なのだ。

なつかしさに胸が熱くなり、思わずソイツの頭を腕の中に抱え込んだ。
かろん。少しだけ籠った音。
昔、風鈴を眺めたまま寝っこけた俺を、母はたまに腕の中に抱えてぽん、ぽん、とやさしく頭を撫でてくれた。寝ぼけ眼に伝わってくるその感触が心地よくて、目が覚めてもしばらく寝たふりをしてその温かな感覚に身を任せていたものだ。

目の端をつーっと温かな水が流れた。
そうだ、もう一度コイツを飾ろう。

ちりり。
透明な頭を抱えていた腕を解き、華奢な手を引く。
ソイツは何の抵抗もなく手を握り返し、俺の隣に移動したあと再度俺の顔を見上げた。
ああ、そうだな。早く帰ろう、俺たちの家に。

手をしっかりと握りしめ、ゆるゆると歩き始める。
ちりん、ちりん、ちりりぃ、ちりん。
隣のソイツはスキップをするように軽やかな足取りで、楽し気に鈴の音をこぼしながらついてくる。そんな様子にふっと笑みがこぼれた。

早く、窓辺に座らせてやりたい。お前も、あの場所が好きだったんだな。
ビール缶の散らかった床、染みだらけの薄汚れた壁、ヤニで黄ばんだサイズの合っていない重たいカーテン、埃とごみの溜まったサッシ。
色のない、俺の部屋。

ちり、ちり、りりぃ、ちりん。
自然と足取りが速まっていく。
はやく、はやく、はやく、はやく、はやく、はやく。眺めたい。

今度こそ、大事にするから。
傷一つ、汚れ一つ、つかないように。やさしく、やさしく抱き上げて窓辺に座らせよう。
俺の腕に小さな体を預けて、お日様を見上げながら風に頭を揺らすソイツを想像するだけで胸が躍る。

早まり続ける足取りに、いつの間にかはっ、はっ、と小刻みに息が漏れるほどの速度で走っていた。
ちり、ちり、ちり、ちりり、ちり。
横を見た瞬間ぱちりと目が合って、思わず笑いだす。

「は、はっ、はは、はははははは!」

ちりん、ちり、ちりぃ、ちり、ちり、ちりん。
ソイツも笑う。

もう壊したりしない。ずっと、ずっと、大事にそばに飾っておこう。
二人で笑いあいながら、家まで一緒に駆けていったーー。





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