むしろ時代の流れに合わせないこと。変化しないこと。

クラシックなものを廃れさせないために、時代に合わせて新しいことを取り入れていかねばならないという意見は、誤りなのではないか?

これはずっと心の中にわだかまっていた疑問だが、今、ミケランジェリとチェリビダッケのコンサート録音を聴いていたら、はっきりと自分の中で答えが出た。誤りだ。


この意見はおそらく、「古典が生まれたとき、それは時代の最先端であった、今は時代が移って、大衆の趣味嗜好が進化したので、それにあわせて古典も変化していかなければならない」ということなのだろうが、今のところ2つの間違いが指摘できる。

まず簡単なところ、「時代に合わせて変化していかなければならない」というところ。
これは流行り廃りを考えたとき、一見理に適っているようだが、実際には、すでに変化している時代を追って、一歩(殆どの場合五十歩以上)遅れて変化していくという形になっている。つまり、時代の流行は最先端かもしれないが、それを追うものはもう最先端ではなくなっているし、大体古典をやるものがもともと時代に敏感であるわけがないので、五十番煎じか百番煎じくらいになってしまうのが落ちである。
だから、これは事象としても成り立っていないし、方法論的にも適当ではない。
(大体、本当に時代に追随したいのならば、楽器やペンを捨ててキーボードで打ち込み、筆を捨ててタッチペンを手に取ればいい。中途半端はいけない。)


上記によって、「時代に合わせて」というところは批判できたが、まだ「変化していかなければいけない」というところは批判しきれていない。

時代を後追いして変化していくのは(芸術的に)得策ではないにしても、やはり、変化はしていかなければならないのではないか? そうしなければ、誰にも見向きもされなくなるのではないか?

否だ。変化をしない方がいい。

むしろ、変化をしようと思わずとも、演者作者を取り巻く現実が変化すれば作品も変化の波を受けざるをえない。クラシックなもので、その生まれた当時から変化していないものこそないのではないか。

むしろそれらの変化を通して、不必要な解釈や工夫、時代ごとの曲解と無理解、惰性などを、一つの作品が背負っていくことで、作品の本質は歪み、つまらなくなっているように思う。

例えば、演歌が時代に顧みられなくなってくる。それは演歌が時代から離れてしまった、のではなく、演歌が時代を経るごとに、いわゆる演歌らしい歌い方だとか仕草という架空の枠組を得てしまって、つまり時代とともに変化してしまったからではないか。例えば、アイドル歌手であった石川さゆりが津軽海峡冬景色で紅白に出たとき、その時の演歌にあった自由はほとんど失われて、演歌といえば演歌らしい架空のスタイルをまとってしまっている。

例えば演歌らしいスタイルを身に着けたあとの現代の石川さゆりやそのさらに追随者を真似るのと、当時19歳だった石川さゆりの立ち姿を真似るのではどちらがいいだろうか。あるいは、どちらが本質的だろうか、演歌に対して正しい態度だろうか。


特に理由もなく演歌を引き合いに出してしまったが、これは西洋クラシックでも、日本の伝統音楽でも同じことで、やはり時代を経ることで、いらない「らしさ」だとか全時代の遺物をまとってしまって、それによってつまらなくなってゆくことがほとんどなのではないか。

変わらない、とは、本来あった本質に対して誠実に向き合うということである。

それが生まれたとき、それがそれで、それ以外にそれはなく、それ自体がそのまま本質を体現していた。


でもまあ裾野を広げるっていう点では、時代に追随するのも悪くはないのかな。どうなんだろう。閉じこもっているだけでは、知る人も知れず、より深く知る人も現れなくなってしまうのも確かかもしれない。
まあ、「時代に合わせて変化すべき」と感じて主張し、行動するのも自由だし、否、そうではないと意見するのも自由で、結局は自分なりに行動して、どこまで行けるかというところが肝心なのだろう。
この文章も、自分はこう気づいたという話でしかないし、書くことで忘れたり間違えないようにしようとしているだけだ。