オリジナリティがない、なんて

表現にオリジナリティなんてない、だとか、全ての言葉は人からの借り物だ、というような言葉をきくと、びっくりする。


自分に対してオリジナリティを求めない人なんだろうか、あるいは求めることを諦めている人なんだろうか。でも、それら、自分については言及していないつもりなのかもしれない。

私も芭蕉の真似をし、ゲイリー・スナイダーの真似をしているが、オリジナリティはある。なぜなら、自分は一個の人間だからである。

自分は一個の人間である、当たり前の話ではないだろうか。

ありきたりな臭いがして、つまらない作品が世にはたくさんある。それらは全て、一個の人間であるというところに行くまで、時間をかけて追求できず、途中で手放してしまったことに起因している。

世の中にいれば、性急に表現したり制作を求めたりするが、実際には人生は長く、まぎれもない一個人としての自分にまで行き着くまで時間をかけて、離れないようにすれば、きっと間違えないだろう。


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確かに、言葉は個人の持ち物ではなく、他者から真似て学ぶものである。しかし、手のことを考えてみよう。手は、人類あるいは動物、あるいは生物共通のものであるが、一つの手は、一人の人間特有のものではないだろうか。一個の人間は、身体的に、物理存在的に唯一のものである。手も、やはり一個の存在であり、それぞれに細かな違いがあり、特徴がある。その形や使いよう、癖など、、

言葉もそうではないか。
言葉には実体がない、ということはなくて、言葉はこの喉や肺、舌の形状、身体的特性に多くを依拠しているし、もちろん記憶にも依拠している。その上に、言葉は基本的に発音、声とほとんど常に、ともにあるものだ。全ての言葉に、オリジナリティがないなどいえるだろうか。ないとしたら、それはオリジナルなところまで、根気強く辿り着けず、自分の手から手放してしまっただけだろう。

しかし、そういった身体性は全てを諦めたとき、手放したとき、削り去ったときに初めて生のままあらわれてくるものでもある。

まあそう簡単に諦められるなら、とっくに諦めているし、それが上手くできないから、しばらくは根気強く追求していればいいのだ。